(※2008年2月8日追記)見易さのために番組出演者の発言を三種類に色訳けし、勝谷氏の発言は引用形式にしました。『委員会』の議論全体の流れは、7日の日記で御確認下さい。
【目次】
1.昨日の『委員会』の感想
2.勝谷誠彦氏の発言について
3.何故、複数対複数の議論が必要か
4.橋下徹氏の言動について
5.番組への感想と死刑存廃論議の区別(10月13日2時00分頃追記)
6.菊田幸一氏は何を言いたかったのか(10月13日2時00分頃追記)
1.昨日の『委員会』の感想
昨日の『委員会』のテーマは死刑制度でした。司会は、やしきたかじん氏と辛坊治郎氏。パネラーは、三宅久之氏、花田紀凱氏、勝谷誠彦氏、宮崎哲弥氏、橋下徹氏、桂ざこば氏、デーブ・スペクター氏、川村ひかる氏。川村氏はアイドル枠なので討論には実質参加していません。ゲストは明治大学名誉教授の菊田幸一弁護士でした。
視聴した感想は、死刑存置論者が死刑廃止論者を「論破」したなどと評価できるような内容ではありませんでした。数の上でも存置派7人(死刑は条件付でという中立的な意見の宮崎氏を含めれば8人)に廃止派1人という均衡を欠く状況で、司会者のやしき氏は菊田教授に悪態をつくような場面もあり、とても公正中立な議論の場というには程遠い状況でした。特に橋下氏、三宅氏・勝谷氏・桂氏が大声で人の話を遮っていたのが印象的で(花田氏は意外と静かでした)、死刑存廃論議という以前の問題で、対話が成立しているとはいえず、一方的な糾弾会の様相でした。
宮崎氏(とおそらく橋下氏)以外のパネラーは、故意と過失、極刑と死刑、死刑廃止と死刑回避、終身刑と無期懲役刑などの区別もついておらず(少なくとも私が見た限りでは区別が付いているとは思えなかった)、宮崎氏が都度指摘しなければ、間違いが間違いとして罷り通っていたと思います。橋下氏に至っては、弁護士ならば再審請求の壁が厚いことは知識として知っていてもおかしくないはずですが、「再審請求するなら弁護士任官があるのだから裁判官になってやれ(本文末尾参照)」という趣旨の批判も展開していました。『委員会』パネラーは、相手が一人であることを奇貨として、数に頼って「論破」したかのような印象を視聴者に与えるよう振舞っていたのかもしれませんが、よく見ていればパネラー側の意見にも粗が目立ちました。
ニコニコ動画あたりでは、『委員会』メンバーが菊田氏を「論破」したと思っている人達もいたようですが、実際には自分達が刑事訴訟制度についての誤った知識を教えられていたことなど想像もしていないでしょう。視聴者が勘違いするのは、正しい知識を得る機会がなかったから仕方ないですが、多数の著名な識者が出演している『委員会』には、視聴者に対して誠実に事実を伝える責任があると思います。宮崎氏以外の出演者には、そもそも視聴者に対する誠実さが欠けていました。
2.勝谷誠彦氏の発言について
菊田氏にしてみれば、宮崎氏が唯一まともに対話できそうな論者でしたが、宮崎氏が「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。慰められたいからじゃないの。とにかく、あの人間が同じ世界で息をしていることが許せないんです。」と指摘しても、少し経てば、勝谷氏が次のように発言します。
勝谷「本村さんは望みうる限りの極刑、最高の刑を適用することが、お嬢さんや奥さんへの自分が出来るせめてものことだと思ってる。これは殆どの被害者がそう思うでしょう。ね、だから、死刑が必要なんですよ。その極刑が終身刑、無期懲役だったら、癒されないじゃないですか。」
この発言は直後に宮崎氏に窘められていましたが、このような循環論法を相手にまともな議論は期待できません。また、死刑制度に関する議論の終盤では、勝谷氏は次のようなことも言っていました。
勝谷「ちょ、ちょっと冷静に、先生もう時間ないんだから、最後にもう一つだけ、冷静な、冷静な会話の上で申し上げたいんですけれども、おっしゃる通り、世界の、死刑の存置か廃止かについては冷静な論議をすべきだと思います。今日は私、熱くなり過ぎだと思います。だけど、今いる死刑囚は、今、私達が守っている、決めた法の下で、死刑を言われた人達ですよね、ね。だから、これは法的にはもう、勿論、再審請求してもいいでしょう。あれもいいでしょう。だから、法的には、基本的には僕は死刑執行されるべきだと思うけれど、ま、その上でまだ再審だ何だ闘われたらいいと思いますよ。但し、その人達の裁判を、己のイデオロギーのために、宣伝に使って、被害者を踏みつけるのはやめろ!本村さんに対して、それがそうじゃないか。」
勿論、菊田氏は光市事件差戻審の弁護団ではありませんから、このような発言を向けられるのは筋違いであり、直後に宮崎氏から「菊田さんに言ってもしょうがないやろ。」と窘められて、勝谷氏も次のように言い改めていました。
勝谷「いや、そういう運動してた人達に伝えて欲しいんですよ。あれはやめて欲しい。本村さんを二度三度、奥さんを殺された人をもう一回殺すようなものじゃないですか。幾らでも論議しましょうよ、しましょうよ。でも、現実の裁判でああいったことを、卑劣な闘い方はやめて頂きたい。」
これを受けて菊田氏が「それは私も同感ですよ。具体的に言いますとね、あの事件に限って、何故、21人の弁護士をね、死刑廃止論者だけを並べたのか。私はそれを批判している訳ですよ。」と光市事件弁護団批判を展開します。宮崎氏が咄嗟に「全員が死刑廃止論者ではないとおっしゃってます。」と訂正するものの、菊田氏は「それはそれとしてね、21人を何故、並べる必要があったのかということを含めて、ただ原理主義だけで闘ってる、と。」と発言。明らかに勝谷氏に釣られていました。
勝谷氏といえば橋下氏同様、光市事件について継続的に言及していて、かつ、ネット上でも言論活動をしている人物です。そうであるならば、今枝弁護士のブログや光市事件弁護団の広報ページの存在はおそらくは知っているでしょう。まさか、ジャーナリストを自称していて、その程度のことも知らないとすれば、それは彼の
(※)『委員会』での勝谷氏の発言を、橋下氏、三宅氏、桂氏と並んで酷いものだと感じ、閲覧後の感情に従って本エントリーを書きましたが、上記打消線部分のような言葉は失礼に失礼で返すようなものなので、訂正します。(2007年10月10日23:30分頃追記)
3.何故、複数対複数の議論が必要か
『朝まで生テレビ』の議論がグダグダになるのは、田原総一郎氏という司会者が自身の主張を語り過ぎて、司会者の公正中立が機能していないからで、『TVタックル』の議論がグダグダになるのは、北野武氏という司会者が議論の交通整理を放棄して、公正中立が機能していないからだと思います。例えば、NHKの『日曜討論』では予め論点を決め、静謐な環境の下で、司会者が識者全員に対等に話す機会を与えているので、複数対複数という形式であっても議論がグダグダになるということは、私が見た限りでは一度もありません。尤も、『日曜討論』の議論にエンターテイメント番組としての面白さは期待できないので、『委員会』が『日曜討論』を真似る必要はありませんが。
それでも、複数対複数であれば心理的負担も減りますし、発言時間の配分も自ずと調整されます。結果として議論がグダグダになったとしても、その過程で公正中立が保たれていれば議論の説得力も高まります。昨日の『委員会』のような圧倒的有利な状況でさえ、あれだけ間違いを犯し、間違いを間違いであるとも気付かず、それを数と感情論で押し通す死刑存置論ならば、存置論者・廃止論者ともに他人の発言を遮るような人物を廃除すれば、もう少し質の高い議論にはなったと思います。
しかし、死刑存置論・廃止論同数での議論を求める菊田氏の発言さえも、『委員会』レギュラーメンバーの三宅氏は「あのね、この番組は死刑問題だけで並べたんじゃないんです。いつものレギュラーですからね。それが世間一般の常識だから。」と言って、笑っていました。続けて、桂氏は「それやったら廃止論者をほんまに5人ほど呼んできたらええやんか。」と言っていましたが、出演交渉をするのは番組制作者側の仕事です。数の上での圧倒的優位を把握していながら、斯様な発言をする三宅氏や桂氏の態度は、見ていてかなり不快なものがありました。
『委員会』側には懲戒請求騒動のきっかけを作った責任があり、先月9日の放送で光市事件弁護団に対して番組出演を呼びかけた際には、辛坊氏が論争することが目的ではない旨を明言していました。それならば、先ず、今枝弁護士らが出演した際に対話できる雰囲気を示すのが『委員会』側の誠意でしょう。橋下氏、勝谷氏、三宅氏、桂氏のような公衆の面前で他者を罵倒して恥じないような下品極まる人達を厳しく注意するか、『委員会』パネラーと同数かそれに近い数を形式上でも揃えるのが筋です。
橋下弁護士にしても、“世間への説明責任”を唱えるのであれば、世間に両論が正確に伝わるようにメディアに働きかけるべきでしょう。また、被害者感情を錦の御旗にするのであれば、懲戒請求騒動との関係でいえば、橋下氏が加害者であり、今枝弁護士らが被害者ですから、被害者が糾弾会のような番組に釈明に出向かなければならないというのは理不尽な話です。昨日のような番組内容では「細かくネットをしない層」や「誤解を基にまだ批判している層」といった所謂「世間」への説明責任を根拠に、今枝弁護士らに無理を強いること自体が卑怯です。
4.橋下徹氏の言動について
橋下氏は今月6日のエントリーで今枝弁護士に対して、菊田氏の一件を示した後で、「番組に出演すれば、総攻撃にあうことは間違いない。」や「一線で活躍されている論客からの最高の反対尋問を経験してみてください。」と言って『委員会』に出演するように呼びかけていました。第二東京弁護士会所属の安田弁護士や広島弁護士会所属の今枝弁護士に対して、大阪のスタジオに来て申し開きをせよと言いながら、自身は広島地裁で提訴された際に大阪地裁に移管することもなく受けて立ちながら、公判期日には欠席しました。準備書面も電話会議も法的には合法ですが、相手にはブログ上での“世間への説明責任”以上の、公開の討論を要求しながら、自身は公開の法廷に現われないという二重基準を示しました。彼の世間主義には一貫性がありません。
また、橋下・今枝訴訟における原告側代理人である児玉弁護士に対しては、答弁書90枚を事前通告もなくFAX送信するという社会人として考えられないようなことをしながら、ブログ上にて逆ギレしていました。光市事件弁護団の一員でもない児玉弁護士に対して、光市事件弁護団と混同しているかのような批判をしていました。一連の懲戒請求騒動とそれを巡る弁護団批判者の言動を象徴するのは、この連座責任の発想です。世間主義と連座責任を相手にのみ押し付けるのが弁護団批判者の手法です。
橋下弁護士はよく被害者遺族の感情を持ち出します。昨日の『委員会』でも「刑事裁判は被害者のためにある」という趣旨の発言をしていましたが、自身の欲望を満たしたいのではなく、被害者遺族の感情を尊重するがゆえの発言であるというのであれば、テレビに出て死刑存廃論を言うよりも、被害者遺族が少年審判を傍聴できるように世間に訴えかけるべきだと思います。犯罪被害者が求めているのは、何も厳罰化だけではありません。少年審判を傍聴できるようにすることも、附帯私訴制度や公訴参加制度の導入も、犯罪被害者補償制度の拡充も、犯罪被害者と家族・遺族の求めていることです。そういうことを一つでも橋下氏は犯罪被害者達と共に主張してきたのでしょうか。
安易に被害者感情を持ち出す人達は、そういう地味な活動には見向きもしません。結局、被害者遺族がどうこうと言いながら、凶悪犯罪者や死刑廃止論者、刑罰謙抑論者に罵詈雑言をぶつけてスカッとしたいだけなのではありませんか。
5.番組への感想と死刑存廃論議の区別(10月13日2時00分頃追記)
ここまで、今回の『委員会』における製作者やパネラーの姿勢を批判してきましたが、そのことによって本コメント欄や2ちゃんねるにて、私が死刑廃止論者であると思っている人がいるようですので、その点について、コメント欄で書いたことを再構成しながら、思うところを書こうと思います。
19:10/09(火) 13:35 8dRPOYXa0 [sage]
ttp://sok-sok.seesaa.net/article/59647055.html
同じ番組見てもぜんぜん自分とは違う事考えてる人がいるんだな。
0か100かみたいな感想ではなくて存置派のここは理解できる
とかないんだろうか?
「加害者の親の方が苦しむ」とかおかしいよ。
『たかじんのそこまで言って委員会116』
本エントリーでは『委員会』パネラーの議論に臨む姿勢を批判しました。しかし、それは菊田氏への批判が、既にニコニコ動画のコメントなどでなされていたことを前提にしています。第1項の3段落目の終わりに「よく見ていればパネラー側の意見にも粗が目立ちました。」と書きましたが、「にも」と書いているように、菊田氏の言い分にも粗があったことは認識しています。「Aにも…があった」という文章構造からは「Bにも…があった」ということは分かると思います。私の本件における問題意識についても、本文冒頭に前のエントリーへのリンクを貼っており、末尾には関連エントリーを挙げていることから、それらを読んで頂ければ分かると思います。
これは本コメント欄にも書きましたし、以前にも少し書いたことがありますが、私は死刑廃止論と死刑存置論(刑罰の謙抑と慎重審理)の間でフラフラしています。光市事件を巡るネット上での連鎖する憎悪を目にすると前者に傾き(死刑があるが故に死刑積極論や厳罰化論という点でしか被害者感情に寄り添えないのではないか)、名古屋の闇サイト殺人事件での自首の報に触れると後者に傾いて(確か翌日に第二の犯行を予定していたとの報道がありました)、未だに死刑の存廃の議論には結論が出せていません。どちらかの立場に立てるような確固とした信念を持てる程には、私の死刑存廃への思考は成熟していません。その代わりにどちらの意見も概要くらいは把握しているつもりです。
パネラー陣の振る舞いを批判することと、菊田氏の意見に賛同するかどうかはまた別のことです。本エントリーは、死刑存廃論以前の、パネラーの議論に臨む姿勢を問題にしたものです。死刑存置論者と廃止論者の議論を困難にしているものについて、本コメント欄でコロンバスさんが次のように指摘しています。番組批判を書いただけで死刑廃止論者扱いをする人、「0か100かみたいな感想ではなくて存置派のここは理解できるとかないんだろうか?」と書いてしまう人にこそ、読んでもらいたい文章です。なお、見易さのため、改行のみこちらで変更しています。全文はコメント欄にて確認して下さい。
それにしてもこの問題は本当に議論しにくい問題です。と言ってもテーマ自体が難しいのではなく、それを議論する側の問題であることが、この件に関しては多いです。死刑廃止論者は死刑存置論者をどうしても「権力追従者」側に置きたがるし、死刑存置論者は死刑廃止論者を「おかしな人権派」側に置きたがる。そして互いをパラノイアのように扱う。実際はそういう「悪VS善」と言う構図ではないと思うのですが…。
Posted by コロンバス at 2007年10月10日 12:09
上の文章で「死刑廃止論者」と「死刑存置論者」を二分法的に語りましたが、これはあくまで「典型」と言う意味で使用しています。このような乱暴な二分法は本来出来ないはずですが、現実にはそれが行われています。それを表す上での二分法ですのでご了承下さい。
Posted by コロンバス at 2007年10月10日 12:16
また、balanceさんのコメントも、事件報道や死刑存廃論に関心のある人の多くに知ってもらいたい言葉です。全文はコメント欄にて確認して下さい。
>宮崎氏「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。」
附属池田小事件の宅間守死刑囚死刑執行時の事を想起せずにはいられません。死刑執行を速報で伝える女子アナウンサーが、号泣してしまい原稿を読めなくなりました。プロとしては失格ですが、言葉にできない涙の訳は分かるような気がしました。赤の他人でさえそうなのですから遺族の方たちの無念さは筆舌に尽くしがたいと思います。死刑により救われ癒されたのは宅間守だけなのですから。本村さんの言葉が胸に刺さります。「怒りや憎しみやを乗り越えて、再び優しさを取り戻すためには、死ぬような努力をしなければならないんです」。苦しみの深さを思います。
私もsokさんと同じように死刑廃止論と死刑存置論の間で揺れ動いています。死刑囚の生い立ち、遺族の復讐心と無念、執行刑務官の苦悩、それぞれの立場の本を読むと身動きが取れなくなってしまいます。それから呉智英氏の死刑廃止論に触れた時は近代に生きる人間の限界も感じました。私は感情を論理的思考まで引き上げていくことが苦手です。しかし思考を放棄せずに時間を掛けて解答を探したいと思っています。では、長文駄文失礼しました。
Posted by balance at 2007年10月11日 22:32
6.菊田幸一氏は何を言いたかったのか(10月13日2時00分頃追記)
私は菊田氏の死刑廃止論を詳しくは知りませんので、その真意は量りかねますが、おそらく、こういうことを言いたかったのではないか、と思うところを書いてみます。
例えば、菊田氏は加害者の親と被害者の親の苦しみについて、交通事故に喩えています。「仮定の話ですけれども、私は、加害者の親の方が苦しむと思いますね。殺人による被害者は交通事故のようなものだ。(宮崎哲弥氏と藤井誠二氏との共著「少年をいかに罰するか」の中で引用されている菊田氏の発言)」。この発言が、パネラーや客席からの反発を招いていました。おそらく、多くの視聴者も苛立ったことでしょう。しかし、これは比較の文章ですから、何と何をどのような視点から比較しているのか、その点は検討してみる価値はあります。
仮に、加害者の親の「死刑宣告によって我が子の死を待つことになる苦痛+死刑執行によって我が子が死ぬという苦痛」と被害者の親の「突然に訪れる我が子の死という苦痛(それゆえに死刑宣告のような我が子の死を待つ苦痛はない)」という比較であればどうでしょうか。予告された死という点での比較なので、被害者が死に至った因果関係は捨象されており、被害者遺族がかかえるその他の苦痛もまた除外されているため、このような説明であっても存置論者を納得させられたかどうかは分かりません。それでも、菊田氏の問題意識がどのようなものであるかという点だけは伝わったかもしれません。
菊田氏の死刑と誤判に関する主張はどうでしょうか。菊田氏は「死刑制度があるが故にですね、その裁判が誤判を起こす危険性があるんですよ。」と主張し、その理由として「死刑制度がなければ死刑を言い渡す可能性はないわけだから。」と言っています。これには橋下弁護士が「有期懲役でも、無期懲役いったら、誤判の可能性あるじゃないですか。」と直ちに反論していますが、それに対して、菊田氏は「無期と死刑、有期刑と、懲役刑と死刑囚をね、比較してはいけない。」と答えています。このやりとりから、菊田氏が何を言おうとしているのかを理解するのは、中々困難です。
しかし、菊田説の理由付けである「死刑制度がなければ死刑を言い渡す可能性はない」や橋下弁護士への反論として挙げた「懲役刑と死刑囚を比較してはいけない」という言葉からは、人の生命の問題に言及していることが推測できます。そこで「死刑制度があるが故に、その裁判が人の生命に関わる誤判を起こす危険性がある」と言い換えればどうでしょうか。これも存置論者を納得させられるかはともかく、菊田氏が何を問題視しているかは伝わったかもしれません。
菊田氏の「少年時代の一コマ」「人生百年の一コマ」という発言についてはどうでしょうか。これは未成年者の人格の可塑性に着目する少年法の考えと照らせてみれば、少年法改正に否定的な論者の意見との類似性が見えてきます。ただ、少年法改廃論議で問題とされるような凶悪事件における犯行態様とは、余りにもかけ離れた軽い言葉で述べたが故に、被害者遺族の感情を逆撫でするものとして、批判の的になったのだと思います。適切な言葉を選択できず、自説を正確に伝えられなかったのは菊田氏に責任があり、パネラーや視聴者がその言葉の選択に憤りを感じることは分かります。
分かりますが、だからといって、揚げ足取りだけで議論が深まらないというのも困ります。対等なディベートの場であれば、テクニックとして言質を取る行為と理解することも出来ますが、今回は前提条件があまりにも違いました。パネラー8人に対してゲスト1人、条件付きでの死刑存置を主張する宮崎氏とアイドル枠で参加している川村氏を除いても、存置派6人に廃止派1人という状況です。厳密には橋下氏も条件付きの存置派ですが、今回の放送における振る舞い方から存置派に換算して差し支えないでしょう。存置論者側は、この数の上で圧倒的に有利な状況があるのですから、揚げ足取りは程々にして、その真意を問い直して、議論を深めるよう努める姿勢があっても良かったと思います。
今回、『委員会』パネラーは、死刑存廃論議というテーマと直接関係のない憲法論議まで吹っかけていました。相手の思想傾向と二重基準を炙り出し、それによって相手の主張の説得力を削ぐという意図でしょう。しかし、それが討論上の一手法であったとしても、数の上で圧倒的優位にあることを考えれば、そういう手法を用いる必要はなく、もっと建設的な議論に努めることも可能でした。番組関係者や橋下弁護士が、今枝弁護士の出演を念頭に入れているのであれば、尚更、建設的な議論になるよう努めるべきでした。
再審請求に関する議論のテキスト化
橋下徹:ただ、菊田さんね、再審についてなんですけども、本当にね、きちんとしたその証拠に基づいて、再審をやってるんだったら、それは冤罪を晴らすために僕は必要だと思うんですよ。今ね、弁護士がやってる再審請求っていうのは、死刑反対論者が、きちんとした証拠にも基づかずにですよ、再審請求を出せば死刑が停まるって形で、じゃあ、実際にその再審請求で再審が開始された、その率を、どれぐらいなんですかね。
菊田幸一:いや、再審のその…
橋下徹:開始決定が出た率は?
菊田幸一:壁はもう、実にもう1%以下ということで…
橋下徹:そうですよね。
菊田幸一:例外中の例外です。
橋下徹:実際、実際はそうなんです。だから、再審請求を出せば死刑が停まるけれども…
菊田幸一:私も今ね、死刑囚は…
橋下徹:実際にね、裁判所が一生懸命吟味して、再審開始決定が出て、開始決定が出た後に、さらに無罪になるかどうかは別ですよね。
菊田幸一:ええ。
橋下徹:開始決定が出るすら1%しかない。じゃあ、残り99%は弁護士がね、無能な弁護士が余計な、その手続きをやってるってことじゃないですか。
菊田幸一:いや、そうじゃないですね。それは再審の壁がね、扉が厚…
橋下徹:いや、それは厚いじゃなくて、日本の制度、日本の司法制度なんだからしょうがないじゃないですか。弁護士がいくら『再審だ、再審だ』と言っても…
菊田幸一:だから、しょうがないじゃなくて…
橋下徹:裁判所が認めないんだったら…
菊田幸一:しょうがないじゃなくて…
橋下徹:じゃあ、皆さん、それ、再審請求する弁護士がね、裁判官になって、それやったらいいのに、何故、裁判官ならないんですか。弁護士任官だって出来るのに。
菊田幸一:それは、あの、弁護士としての職業上やっているわけであってね、貴方は、貴方は職業…
橋下徹:いや、そこが詭弁なんですよ。そんな無駄な再審をバンバンバンバン死刑を停めるためにやってね。
→以下、菊田氏担当の殺人事件弁護の話。疲れたので省略。気が向けばテキスト化するかも。
→全文テキスト化しました。でも、軽く先を越されてたorz(2007年10月10日追記)
【当ブログの関連エントリー】
(2006年06月21日)山口県光市母子殺害事件とネット言論
(2007年07月02日)刑事弁護人の懲戒請求について
(2007年07月07日)NHK 特報首都圏『ネットの“祭り”が暴走する』テキスト起こし
(2007年09月09日)橋下弁護士が提訴された件について
(2007年09月12日)橋下弁護士の主張する“世間への説明責任”はネット上の“世間”に正確に伝わっていたか
(2007年09月22日)弁護団と批判者のすれ違い
(2007年09月24日)光市母子殺害事件裁判の弁護人批判について
(2007年10月06日)今枝弁護士の『委員会』出演は条件付きで賛成です
私も視聴しましたが酷い番組でした。日頃から人の道を説いているレギュラー陣の礼儀の欠如とそれを良しとし諭そうともしない司会者に愕然としました。宮崎氏のみが建設的議論に尽力されているようでした。
橋下弁護士は「世間」を連呼していましたが、歴史を学べば「世間」が必ずしも正しい答えを導き出すとは限らないことは明らかなのに…。私はスタジオに流れていた空気(世間というファシズム)に恐怖しました。もしかしたら人間が持つ無自覚な明るく優しい野蛮さを感じたのかもしれません。
これからも冷静かつ論理的な記事を期待しています。では、駄文失礼しました。
憲法9条は日本にしかない奇妙奇天烈な項目にも拘らず、すばらしいと賛辞を送る。
おかしな人たちですね。
橋下弁護士は不思議な人ですね。菊田氏が「被害者はね、絶対に癒されないんですよ。」と言えば「いや、だから、それがおかしい。誰に聞いたの?」と言い、直後に宮崎氏が「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。」と言えば「そう、癒されるためじゃないんですよ。」と言う。勝谷氏が「死刑でなければ本村さんが癒されない」という趣旨の発言をし、それに対して宮崎氏が即座に「だから、犯罪被害者は癒されたりしないんだって。刑罰によっては。」と指摘すれば、直後に橋下氏は「そう。それを勝手にね、死刑になったから満足するとか、そこがね、本当に分かってないなっていうか、満足なんかするわけないじゃないですか。人生ボロボロになって。」と言う。これで相手を論破したつもりでいるというのが信じられません。
番組に対しては、以前はもっとゲストに対して丁寧な対応をしていたという印象がありましたが、今回の放送は本当に酷いものでした。たった一人の菊田氏に向けられる嘲笑と罵倒、パネラーの態度に釣られて客席から漏れる笑い、それらが作るスタジオの雰囲気、見ていて辛かったです。毎度毎度同じような顔ぶれで同じような議論をしていると、論理だけでなく道徳・倫理までも堕落するものなのか。今枝弁護士が出演しないと判断したのは正解でした。
死刑廃止は世界の流れというのはその通りで、今年の8月にはルワンダでも死刑が廃止されたそうです。まあ、「外国の例ではこうで、だから日本も…」という論法を使うのであれば、同じような論法で犯罪被害者遺族の支援についても死刑廃止論者が積極的に言及しても良さそうですが、そのような人物は杉浦正健議員ほか数人しか私は知りません。だから、こういう論法に反感を持つ人がいることは分かります。
憲法9条についてですが、今回の放送のテーマは死刑制度の是非です。話の成り行きとはいえ、「憲法9条についてどう思うか」と菊田氏に尋ねたのは三宅氏の方なので、その点もお忘れなく。私見ですが、テーマと無関係なことをぶつけて、相手の二重基準を炙り出そうという戦術は、建設的な議論とは程遠い手法なので、あまり良い印象は持ちませんでした。
なお、本文の1番のところに「パネラー側の意見にも粗が目立ちました」と書いています。「にも」ということで、菊田氏の言い分にも粗があったことは認識して書いています。このエントリーは、私が本文を宛てた方達の番組視聴後の反応とニコニコ動画でのコメントの傾向を前提にして書いていること、番組自体が菊田氏批判に傾斜していたこと等から、既に批判が向けられている菊田氏への言及は省きました。
sokさんは外国での流れとは別に考えるという解釈で良いんでしょうか?
三宅氏の質問の意図は明確でしょう。
ファッションとして憲法9条擁護・死刑廃止などが組み合わせて主張されているイメージがあるからです。
(勝谷氏は朝日新聞も付け加えていましたが、sokさんの読まれている新聞はどこなんでしょう?w)
レッテル貼りというか、カテゴリー分けの為の質問とでも言うんでしょうかね。
「にも」の内でも「も」だけですね。
その一文字だけで、ありとあらゆる認識が後から付け加えられる日本語って便利ですね。
こういうところで主張する場合は是は是、非は非で書いた方が誤解を生まずよろしいかと思いますよ。
まさかsokさんは少年による殺人を長い人生の「一コマ」だとは認められないとは思いますが、是非が書かれていないと全て受け入れているような印象がありますからね。
この回の「委員会」、私も見ました。
感想はsokさんと同感で、宮崎哲弥さん以外のパネラーがあまりに感情的かつ下品だったため、(私も死刑存置論者ですが、結論を同じくする立場から見ても)菊田幸一さんに対するパネラーの物言いの数々はただただ不快に感じ、また議論が全然深まっていかないことに苛立ちも覚えました。
世の中が議論というものをはき違えているのか、それとも番組制作側が死刑廃止派への罵声攻撃を「白熱した議論」と勘違いしているのかは知りませんが、ああいうのは議論などではなく、単なる糾弾会、ハッキリ言えば言葉のリンチです。
一視聴者としては、感情的な罵倒という死刑存置派の精神的自慰ではなく、理知的な論破と議論の深化だったんですが、そういう落ち着いた対話を今の「委員会」に求めるのは間違っているようだと今回改めて痛感しました。
なんだかあの番組をみて「バカの壁」を見せつけられたような気分になりました。
長々とすみませんでした。これからも冷静な論評を楽しみにしております。
他の場所でも書いたのですが私自身、死刑廃止論者であます。ただ、宮崎氏とはほぼ同じ意見ですが、菊田氏の死刑=悪論とは意見を異にします。とは言え、異論として認め、議論できない内容ではありませんでした。けれど、この番組のパネラー陣はそれすら放棄してしまって糾弾会にしてしまった。それは思考の放棄でしょう。
ただ、菊田氏にも問題があって、(パネラー方の戦略にはまって?)「価値観の戦い」に持っていかれているように思います。宮崎氏のみ、それを正そうともがいていたようでしたが、それこそ「複数対少数」の中の戦いでどうにも出来ませんでした。そういう戦いになってしまったならば論の内容ではなく場の支配している価値観の「数」によって議論の行方が決まってしまうのは目に見えています。そこは議論のためにも菊田氏は避けて欲しかった。人権派としての意見は抑え、「死刑の有効性(ただ、これを議論しているうちに価値観闘争に巻き込まれた感じでしたが)」「終身刑他の極刑による代用」等の刑の機能的な側面に絞った方が良かったように思います。
それにしてもこの問題は本当に議論しにくい問題です。と言ってもテーマ自体が難しいのではなく、それを議論する側の問題であることが、この件に関しては多いです。
死刑廃止論者は死刑存置論者をどうしても「権力追従者」側に置きたがるし、死刑存置論者は死刑廃止論者を「おかしな人権派」側に置きたがる。そして互いをパラノイアのように扱う。
実際はそういう「悪VS善」と言う構図ではないと思うのですが…。
>sokさんは外国での流れとは別に考えるという解釈で良いんでしょうか?
ある分野で先進的な外国の事例や世界の流れを参考にすることはよくあることだと思います。だからといって、皆がやっているから取り入れろというだけでは説得力に欠けます。それでは死刑存置論者を納得させられないでしょう。
>ファッションとして憲法9条擁護・死刑廃止などが組み合わせて主張されているイメージがあるからです。
護憲論者が死刑廃止論を訴えたとしても、特に問題はないと思います。仮に、議題とは関係のない話題をぶつけて、相手の思想傾向と二重基準を炙り出し、それによって相手の主張の説得力を削ぐことを思いついたとしても、数の上で圧倒的優位にあることを考えれば、ああいう手法を用いる必要はなく、もっと建設的な議論にすることも可能でした。番組関係者や橋下弁護士が、今枝弁護士の出演を念頭に入れているのであれば、尚更、建設的な議論になるよう努めるべきでした。
>(勝谷氏は朝日新聞も付け加えていましたが、sokさんの読まれている新聞はどこなんでしょう?w)
どこの新聞を読んでいるのかということと、今回の『委員会』メンバーの振る舞いを批判することは、別の話であり、関係がありません。なお、朝日新聞は好きではありません。それは過去のエントリーを見て頂ければ分かります。
>「にも」の内でも「も」だけですね。
「Aにも…があった」という文章構造からは「Bにも…があった」ということは容易に分かると思います。
>その一文字だけで、ありとあらゆる認識が後から付け加えられる日本語って便利ですね。
別にありとあらゆる認識を後から付け加えているつもりはありません。質問されたことに答えています。将来コメントされるかもしれないありとあらゆる質問を事前に想定し、予め本文に記述しなければならないという要求の方が不可能を強いる行為です。
>こういうところで主張する場合は是は是、非は非で書いた方が誤解を生まずよろしいかと思いますよ。
「誤解を生まず」と言いますが、私の本件における問題意識は、関連エントリーとして挙げた各リンク先を読めば分かります。本文の冒頭にも前のエントリーへのリンクを貼っています。ニコニコ動画へのリンクも貼っているので、そこでどのようなコメントがなされているかも、閲覧者は知ることが出来ます。また、「是は是、非は非で書いた方が誤解を生まずよろしい」というのであれば、「先ず隗より始めよ」という言葉もありますので、貴方が手本を示して下さい。貴方の文章には菊田氏批判しかなく、私の文章における「も」の要素すらありません。「誤解を生まず」と言いますが、それは中々難しいことです。
>まさかsokさんは少年による殺人を長い人生の「一コマ」だとは認められないとは思いますが、是非が書かれていないと全て受け入れているような印象がありますからね。
本文にて主に問題視しているのは『委員会』メンバー(特に三宅氏、ざこば氏、勝谷氏、橋下氏)の対応です。『委員会』メンバーの議論に臨む姿勢を批判することで、菊田説を全て受け入れているような印象になるということはないと思います。菊田教授の「少年時代の一コマ」「人生百年の一コマ」という発言については、未成年者の人格の可塑性に着目する少年法の考えを、少年法改廃論議で問題とされる凶悪事件の内容とはかけ離れた軽い言葉で述べたが故に、批判の的になったのだと思います。言葉の選択を批判されるというのは分かりますが、しかし、揚げ足取りだけで議論が深まらないというのも困ります。
『委員会』パネラーの中には、菊田教授と個々の事件の凶悪犯罪者を重ね合わせて、犯罪者への怒りをぶつけている人もいました。でも、そういう人達こそ厳罰化論以外の場面で犯罪被害者の気持ちを想像したことがあるのだろうか、著名な識者を揃えて素朴な感情の暴走を抑制できなかったのかと残念に思います。死刑廃止論者を呼んできて、糾弾会のように吊るし上げて、「世間の声と被害者の気持ちが少しでも分かっただろう」と言う様な、勧善懲悪番組にはなって欲しくなかったです。
パネラーの態度もどうかと思いましたが、番組スタッフに対しても、パネラー8人に対してゲスト1人、しかもパネラーの殆どが同意見というときは、既に数の上での均衡を欠いていることは事前に分かっているのですから、議論という形ではなく、ゲストである専門家が概略を話して、その後は各パネラーの質問に答える形式での進行(イメージとしては大臣就任会見後の記者からの質問)など、対話として成立しそうな方策を模索できなかったのか、と思いました。
私は死刑廃止論と死刑存置論(刑罰の謙抑と慎重審理)の間でフラフラしています。光市事件を巡るネット上での連鎖する憎悪を目にすると前者に傾き(死刑があるが故に死刑積極論や厳罰化論という点でしか被害者感情に寄り添えないのではないか)、名古屋の闇サイト殺人事件での自首の報に触れると後者に傾いて(確か翌日に第二の犯行を予定していたとの報道がありました)、未だに死刑の存廃の議論には結論が出せていません。
菊田教授の説明については、私は菊田教授の死刑廃止論を詳しくは知りませんが、例えば「死刑制度があるが故に、その裁判が誤判を起こす危険性がある」という言い方をするのではなく、「死刑制度があるが故に、その裁判が(人の生命に関わる)誤判を起こす危険性がある」と言えば、まだ何を問題としているのかは伝わったのではないかと思いました。加害者の親と被害者の親を比較するくだりにしても、交通事故に喩えるのではなく、「宣告による我が子の死を待つ苦痛+我が子の死による苦痛」と「唐突な我が子の死による苦痛(ゆえに宣告による我が子の死を待つ苦痛はない)」との比較であれば、納得が得られるとまでは思いませんが、まだ、比較による問題意識だけは伝えられたのではないか、と思いました。
>死刑廃止論者は死刑存置論者をどうしても「権力追従者」側に置きたがるし、
>死刑存置論者は死刑廃止論者を「おかしな人権派」側に置きたがる。
死刑の存置・廃止の議論になると両極端な「典型」が語られがちで、その両極の間にある様々な理由付けよりも、どちらの結論に属するかだけが注目されているという印象は受けます。結論よりも過程に注目した議論の方が、被告人・被害者遺族の問題を考える契機になるのでは、と思います。
>冷静で論理的な意見を述べられるメンバーを増やした方がいいと思います。
パネラーの総数は8人もいると多くて、聞き取れないこともあるし、論点が絞られることもなく時間だけが過ぎるので、6人か4人くらいに絞って、基本的な議論のマナーを備えた人を揃えて欲しいです。三宅氏にしても日曜朝の討論番組に出る時には、落ち着いて政局を論じているのだから、司会が機能して、メンバーを入れ替えて馴れ合いを改めれば、良質な議論が戻るのかもしれません。
多数決ですか?
じゃぁ逆になったらそれに従うってことかな。
法律とか詳しくは分からないけど、素直に言うと自分の身内が殺されて、死刑にならず頑張って更生してくださいなんてオレには言えない
事件は変わるけど昔のこれ
http://www.h4.dion.ne.jp/~kakumei/hannzaisya.htm
だって自分の娘がされたらと思うと・・・・。
しかも主犯は出てきてまた事件起こして刑務所行き。
みんな次はちゃんと更生してねなんて言えるの?
このコメント欄に書き込まれている方の中には、死刑存置論の方も廃止論の方もいますが、「死刑廃止をしてる国が過半数を超えてるから日本もするべき」とコメントしている人はいません。唯一、masaさんがそのような表現を用いていますが、その内容は死刑廃止論者への皮肉です。したがって、今のところ本コメント欄に、貴方が指摘されたような内容を書き込んだ人は、実質的にはいません。よく読み返して下さい。また、死刑廃止が世界の流れであるという事実を、死刑廃止論者が論拠の一つとすることと、日本が死刑を廃止するか否かは別です。世界の過半数の国による多数決で、日本に死刑廃止が押し付けられる訳ではありません。
それから、誰も「自分の身内が殺されて、死刑にならず頑張って更生してください」なんて書いていませんし、自分の娘が女子高生コンクリート詰め殺人事件のような被害に合わされた場合に「次はちゃんと更生してね」と言うとも書いていません。菊田教授にしても、宮崎氏の「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。慰められたいからじゃないの。とにかく、あの人間が同じ世界で息をしていることが許せないんです。」という言葉を受けて、「それはね、人間の感情としてね、当然です。私の子供だったら私だって同じように叫びますよ。だけど実際に、仇討ちをするかしないかは別です、それは。」と言っています。被害者やその家族、遺族になれば、その立場からの言い分が出るのは当然です。コロンバスさんのコメントを、よく読んで下さい。
>橋下弁護士は不思議な人ですね。
橋本弁護士のブログで今枝弁護士への手紙形式の記事を読みました。世間の大波に乗ってサーフィンしている彼の姿が頭に浮かびました。その波が崩れ自らも巻き込まれるかも知れないのに哀しいことです。
>たった一人の菊田氏に向けられる嘲笑と罵倒、パネラーの態度に釣られて客席から漏れる笑い、それらが作るスタジオの雰囲気、見ていて辛かったです。
そうですね。三宅氏が菊田氏の論法の不備を突いて論破したと勝ち誇った顔は、率直に言って品性下劣で醜かったです。
>宮崎氏「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。」
附属池田小事件の宅間守死刑囚死刑執行時の事を想起せずにはいられません。死刑執行を速報で伝える女子アナウンサーが、号泣してしまい原稿を読めなくなりました。プロとしては失格ですが、言葉にできない涙の訳は分かるような気がしました。赤の他人でさえそうなのですから遺族の方たちの無念さは筆舌に尽くしがたいと思います。死刑により救われ癒されたのは宅間守だけなのですから。本村さんの言葉が胸に刺さります。「怒りや憎しみやを乗り越えて、再び優しさを取り戻すためには、死ぬような努力をしなければならないんです」。苦しみの深さを思います。
私もsokさんと同じように死刑廃止論と死刑存置論の間で揺れ動いています。死刑囚の生い立ち、遺族の復讐心と無念、執行刑務官の苦悩、それぞれの立場の本を読むと身動きが取れなくなってしまいます。それから呉智英氏の死刑廃止論に触れた時は近代に生きる人間の限界も感じました。私は感情を論理的思考まで引き上げていくことが苦手です。しかし思考を放棄せずに時間を掛けて解答を探したいと思っています。では、長文駄文失礼しました。
>思考を放棄せずに時間を掛けて解答を探したいと思っています。
被害者と家族、遺族、加害者の家族、冤罪被害者、弁護人、裁判官、検察官、刑務官…それぞれの立場にそれぞれの苦悩があり、無念があり、知ろうとすれば立ち竦み、身動きが取れなくなります。かといって、そのままにしてやり過ごしてよいような問題でもなく、この命に関する問題に、時間をかけて答えを探すしかないのだと思います。存置論も廃止論も、対話相手をモンスターに仕立てず、識者がそれぞれの知恵を持ち合って、社会が解決すべき課題と対策を提示し、国民一人一人の注目もそこに向かって欲しいです。
冤罪で死刑という極論を考えた場合たしかに死刑というものがあるから取り返しのつかないことが発生するようにも考えられます。
極刑に値する犯罪者が死ぬまで(無期懲役という意味です)延々と自由もなく苦しむ無間地獄という方法の方がより苦痛が長く続くという考え方もありように思います。
中には死にたいけど自殺は怖いから死刑になりたいなんてバカもいます。
では人道的立場から死刑をなくしてしまえというのであればより早く死ぬ拷問系でもつくったほうがよいのではないでしょうか?
極刑に値するものを監獄の場所、看守、飯などのコストをかけることが私個人としていかがなものかと思います。
冤罪であっても潔く受け入れた『百人斬り』向井、野田両少尉に日本人としてのアイデンティティを私は感じ、誇りに思う次第です。
日本国民という民族性および、コストという面において死刑という概念を無にする必要は無いと考えます。
少数意見かもしれませんがこんな意見もあるとご参考にコメントさせていただきました。
>宮崎氏「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです」
このくだりは、過去に菊田幸一氏が本村氏に対して「あんた、少年が死ねばそれで満足なのかよ」と言ったことに対してのことでしょう。
本村氏が、「司法が制裁を与えないなら、私が殺す」と言った背景は、決してそれで癒されたいとか、満足したいということではありません。
菊田氏のこの発言をふまえて二人が言ったのでしょう。
>このくだりは、過去に菊田幸一氏が本村氏に対して「あんた、少年が死ねばそれで満足なのかよ」と言ったことに対してのことでしょう。
「過去に菊田幸一氏が本村氏に対して」言ったとされるその「暴言」に関しては、ウェブ上のコピペでしか見たことがなく、その前後の文脈も目にしたことがないので何とも言えません。ただ、この回の放送を見た限り、宮崎氏や橋下氏が、過去のその「暴言」を踏まえて発言しているとする箇所は見当たりません。
刑罰と癒しに関するくだりとしては、菊田氏の「相手を殺してもですね、被害者はね、絶対に癒されないんですよ。」という発言を受けて、橋下氏が「いや、だから、それがおかしい。誰に聞いたの?」と反論しているあたりです。そのすぐ後にスペクター氏が「何で決め付けるの?」と畳み掛けています。その時のテロップは“「死刑廃止論者 「加害者が死んでも遺族は癒されない」!?”というものです。末尾に「!?」を付けているあたりから、番組製作者側の立場が推測できます。
このやりとりの中で宮崎氏は「死刑を望むのは、遺族は癒されたいためじゃないんです。慰められたいからじゃないの。とにかく、あの人間が同じ世界で息をしていることが許せないんです。」と言っています。また、別の機会に勝谷氏が「だから、死刑が必要なんですよ。その極刑が終身刑、無期懲役だったら、癒されないじゃないですか。」と言った直後にも、宮崎氏は「いや、だから、犯罪被害者は癒されたりしないんだって、刑罰によっては。」と言っています。
このように「刑罰は遺族にとって満足をもたらすか、癒しをもたらすか」という点から言えば、菊田氏と宮崎氏はそういう立場ではないということが、この回の放送から読み取れます。他方、橋下氏とスペクター氏は「癒されない」という指摘に反発していて(但し、橋下氏に関しては、宮崎氏の発言の後「そう、癒されるためじゃないんですよ。」とも言っており、立場がはっきりしません)、番組製作者はテロップに疑問符を付けていますし、勝谷氏に至っては「無期懲役だったら、癒されない」と言っています。
ゆえに、刑罰と癒しに関して、菊田氏vs宮崎氏・橋下氏という見立ては成り立ちませんし、ウェブ上で時々見かける「暴言」コピペの内容も、番組内での議論では踏まえられてはいません。
たかじんが、くたばりましたねー。
やっこさんとその番組の所業に関する頁を検索していましたら、こちらに辿り着きました。
問題の番組は見ていないのですが。
被害者遺族の感情とか、そもそも、死刑の是非を論じる上で、そんなに尊重すべきものとは思えませんね。
「死刑にされた人の遺族とて、被害者の遺族と、法の下に平等である。いずれの感情にも上下は無い」
「ましてや、冤罪の可能性を考慮すれば、殺したら、確実に取り返しが付かない」
この程度で粉砕出来ると思うのですが。
感情論前提なら、そりゃあ、議論にもなりませんよね。
そんな事を強弁する輩を暴徒と言います。
それがのさばる国であるなら、米帝だって、地位協定改正に応じませんわな。
>冤罪であっても潔く受け入れた『百人斬り』向井、野田両少尉に日本人としてのアイデンティティを私は感じ、誇りに思う次第です。
ドサクサ紛れに、歴史修正主義のデマ垂れ流す輩が居ますなあw
裏は取られている事例なのにwww