2006年10月07日

「心のケア」と「吊るし上げ」

 昨日、本件について時系列に編集していて、修学旅行の写真のくだりで、酷く動揺させられた。河江邦利校長のコメントが、当該女子児童の孤独を際立たせていた。同級生から仲間外れにされて、行動班では一人だけ男子グループに入れられ、養護教諭と2人で回転遊具に乗って、それで「遊園地の絶叫マシンが楽しかった」と女子児童本人が喜んだからといって、それが全てと真に受ける人が校長を務めているという事実が重たかった(10/02:読売新聞特集記事<1>10/03:読売新聞特集記事<2>)。

 児童だって人それぞれ、好き嫌い、相性はあるだろうけれど、班分けくらい担任のリーダーシップで処理すればいい。「今日の何時までに班分けが終わらなかったら、先生の方で決めるから」と言って、自由委任と強制を使い分けて対処すればいい。話し合いを複数回持つこと自体、仲間外れにされている事実を当該女子児童に再認識させるだけなのだから。各新聞社の記事からは担任の姿が殆ど見えてこない。

 学校・市教委側と遺族側の意見は要所要所で食い違うが、新聞報道を見た限りでは学校・市教委側に非があるように思える。自殺未遂当日に遺書の一部を手帳に書き写していながら、その事実を遺族に問い詰められるまで認めなかった河江邦利校長。自殺未遂の翌日に女子児童が搬送された病院で、遺族と立会いながら遺書を見ることを拒んだ辰巳信男教育部長。2005年11月22日から2006年10月2日まで一貫して「いじめ」と「自殺」との因果関係を否定していながら、翌3日に伊吹文明文部科学大臣が記者会見で滝川市教委の対応を批判すると、掌を返して遺族宅まで謝罪に行く安西輝恭市教育長。

 その伊吹文科相にしても『「子供の精神的なケアを充実させる必要がある」とも述べ、女児が自殺した小学校で専門家によるケアを進めるよう求めた。』とコメントしている(10/03:北海道新聞)。当該女子児童は自殺未遂を図った昨年の時点で小学6年生であり、同級生は現在中学生になっていることを考えると、今更、女子児童が自殺した小学校に専門家を派遣して「心のケア」を推進してもどうなるものでもない。誰のための「心のケア」なのか。「いじめ」の舞台になった学級に所属していた同級生達は今や中学校で新生活を送っているのだから。記者会見の全文が見当たらないので前後の文脈は解らないが、この通りであるならば、伊吹文科相の発言もどこか抜けているという印象を受ける。但し、3日の時点でのコメントなので情報不足だっただけかもしれない。


 この点、伊吹文科相とは違い、情報不足の可能性では説明できない人達がいる。現場を知りながら「心のケア」で対応した河江邦利校長と教職員。『全校集会で「6年生が首をつる『事故』があった」と報告、「命は決して自分一人のものではない。親からいただいた大切なものだ」』と説明した(10/05:読売新聞特集記事<3>)。しかし、一学年一クラスの過疎地であり、第一発見者が同級生であったことを考えると、噂はすぐに全校生徒や地域に広まるだろう。にもかかわらず、「いじめ」が原因だったことは伏せていたという対応は、どうなのだろうか。仲間外れにされていた事実も噂になって、尾鰭背鰭が付いて伝わったのではないか。むしろ、犯人探しに結び付かないように配慮しつつも、噂や憶測が先行しないように敢えて正確な情報を伝えて、命について考える機会を設けるべきではなかったのか。

 学校側は原因究明より同級生の「心のケア」を重視したというが、学校側の説明の中にある「子供たちには当初、やはり精神的ショックが見られた。じっとしていられず、大声ではしゃぐ子もいた」という文章を読むと、そもそも彼らは子供達の実態を認識していたのか、と思う。仮に、この場合「精神的ショック」と「大声ではしゃぐ」行為との間に因果関係がなく、その子にとっての日常的な振る舞いであったり、或いは、当該女子児童が自殺したことをも冷やかしの「大声ではしゃぐ」行為であったりすれば、学校側が重視していたはずの「心のケア」が空回りしていたということになる。

 同級生を励まし、女子児童のために千羽鶴を折り、もちつき大会などの行事を中止せずに例年通り行うという学校側の「配慮」についても、それが同級生に不登校などの後遺症が表れなかったこととの因果関係が分からなければ、ただの独善に過ぎない。人の心の問題であれば何が効果的なのかは一意には定まらず、因果関係が分からなくとも八方手を尽くして対応するというのであれば、それは分かる。学校側の対応は非難されるべきではない。しかし、学校側の説明する「心のケア」と遺族への対応の間には大きな隔たりが見受けられる。その隔たりを前提にするならば、女子児童の惨状を直接目撃した第一発見者の同級生や仲の良かった数人の友人、低学年児童に対しては「心のケア」を優先し、それ以外の者、特に「いじめ」の舞台となった6年生の学級では「いじめ」問題と生命について向き合わせるべきだったと思う。

 校長と教頭は、今年9月10日には女子児童の同級生が通う中学の学校祭を訪れて「心のケア」を続けているという。誰のための何のための「心のケア」なのか。各新聞社の記事から得られる情報を見ると「心のケア」という言葉だけが教育現場で一人歩きしているような印象を受ける。


 一方、 ネット上には「先ず糾弾されるべきはいじめていた子供である」という主張も目にした。その問題は既に昨年9月時点での問題である。今年10月に問われているのは、そのようなレベルではない。事は最早、教室での「いじめ」という域に留まらない。にもかかわらず、未だに「先ず糾弾されるべきはいじめていた子供である」という人達がいる。

 また、テレビメディアに出演するコメンテーターの市教委への批判の仕方を問題視する意見もある。市長、教育長、校長が遺族に対して土下座している様子が報じられ、ニュース番組に出演するコメンテーターが一様に教育委員会を糾弾していることに違和感を覚えるらしい。そういうコメンテーターとして私は幾つかの名前を想起し、確かにこれらの記号自体の軽薄性、我が身を省みない様子も連想できる。

 しかし、それはそれ、個々にそのようなコメンテーターの評価を下げて対処すれば良いのであって、今回の市教委側の平身低頭は、遺族が読売新聞社を動かし、他のメディアが追随し、問題がクローズアップされることで、伊吹文科相の市教委批判に繋がって、そこで初めてなされたものである。そして、その取材陣の前での土下座というパフォーマンスを選んだのも市教委側である。一部コメンテーターの言動に不遜なものを感じたからといって、ではメディアが大々的に取り上げず、伊吹文科相を動かさなかった場合、そのもう一つの世界はどのような風景だっただろうか。


 当該女子児童が教室で首を吊ったことに対して、本来ならば市長・教育長・校長が畳に額をこすりつけて懺悔する必要など無かった。けれど、そこに至った。それは市教委側の判断ミスと選択の積み重ねの結果である。それを、さらにスタジオにいる無関係な者達が叱り飛ばすことを「吊るし上げ」と感じる人達がいるそうだが、では「まあまあ、市教委様が畳に額をこすりつけて懺悔しているのですから許しましょうよ」とでも言えというのか。後手後手に回った挙句に大臣様の一言で掌を返した結果としての土下座が批判されたとして、それが「吊るし上げ」にあたるのか。

 一部コメンテーターの不遜な言動によって、今回の市教委側の対応を「どっちもどっち」で済ますなんて私には考えられない。ここでも過失衡量を経ない「どっちもどっち」論が出ているように思う。地方の市教委は中央の大臣と比較すれば弱者かもしれないが、メディアとの関係で弱者にあたるのか。弱い者いじめという点で同じと捉えていいのだろうか。同級生の多くが女子児童をいじめたことは、私人間の多数と一人の力関係である。行政が女子児童の遺書を黙殺したことは、学校・市教委という公的存在と遺族という私人の力関係である。メディアが行政を批判したことは、多数の報道に携わる私企業と学校・市教委という公的存在の力関係である。弱い者いじめという点で同じだとは思えない。

 メディア側に社会的使命や高潔性を求めるのであれば、それはそのメディア自体が不祥事を起こした際の対応に注目し、厳しい批判を向けることで行うべきだろう。「滝川市教委をあれほど手厳しく批判した○○○のお手並み拝見」という姿勢で示せばいい。自社の不祥事に甘いのだから行政や他社の不祥事も大目に見ろという姿勢は、本末転倒である。反メディアも度が過ぎれば思考停止に陥る。


関連エントリー
(2006年10月04日)北海道滝川市の小6女児自殺について
(2006年10月06日)滝川市教委遺書隠蔽事件を時系列で見る
(2006年10月12日)スッキリ!(10月6日放送分)滝川市教委謝罪会見部分テキスト起こし
posted by sok at 22:00| Comment(2) | TrackBack(0) | いじめ・教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。通りすがりです。
遺族への謝罪のあとの校長先生たちの
記者会見、ご覧になりましたか?
私は一連の流れの中で会見のなかでの
校長先生のコメントがひっかかりました。
校長先生は教育委員会と、
生徒ではなく教師との間の板ばさみで
いろいろな言動を取ったのかなぁ、
と思いました。

私の住んでいる地域もとても
人権意識の高い先生が多く、
20件余りの泥棒事件があっても
担任の先生が学校は警察ではないから
犯人探しはしない、と言い切りました。
その件はたくさんの親が
何ヶ月も通い詰めて
解決に至ったようですが、
この事件の場合は保護者が
認識していなかったということなので
想像するに現場は救いがたい
状況だったろうと思います。
Posted by R at 2006年10月11日 23:46
 Rさん、コメントありがとうございます。

 5日の遺族宅への訪問後に行われた記者会見のことですね。安西輝恭教育長が自殺の原因は「いじめ」であると説明したのに対して、河江邦利校長は自殺の原因は全て「いじめ」にあるのではなく、様々な要因があるという認識で保護者会に臨むと説明していました。教育委員会としては文部科学大臣の一声があるので隠蔽する訳にはいかず、校長側としては初期の対応の不備や残された児童や保護者への配慮があったのではないかと考えていましたが、確かに、今回の報道では担任やその他の教職員の姿が殆ど見えてきません。昨年7月20日に女子児童が相談した件や修学旅行前の班分けの辺り、事件後は登校時の声かけ運動や生徒指導交流会、或いは、学校側の報告における「教員や保護者の一部も不眠や食欲不振に陥り、カウンセラーに相談する。」というくだりくらいです。

 御指摘の「保護者が認識していなかった」というのは遺族だけでなく、同級生の保護者も認識していなかったのではないかということですね。今回の件で、教職員の人権意識が「いじめ」を放置したのかどうかは分かりませんが、幾つかの報道を見てみると、この小学校は1学年1クラスで、6年生の学級は自殺した女児も含めて児童は17人だそうです。学年が上がってもクラス替えがない上に、都市部の35人や40人学級に較べて約半数の生徒数なので、教職員にとっては各児童の交友関係は把握し易いのではないかと思います。そうすると、単に無関心や多忙で気付かなかったということでは説明できないのではないか、という気がします。河江校長が他の様々な要因を公の場で述べるのであれば、その他の要因についても、今後明らかにしてもらいたいものです。

 なお、記者会見動画に関して、2006年10月06日放送の「スッキリ!」という報道番組のテキスト起こしをしましたので、そちらもご参照頂ければ幸いです。

(2006年10月12日)スッキリ!(10月6日放送分)滝川市教委謝罪会見部分テキスト起こし
http://sok-sok.seesaa.net/article/25300453.html
Posted by sok at 2006年10月12日 07:07
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。