2006年10月04日

北海道滝川市の小6女児自殺について

 北海道滝川市立の小学校で女子児童が自殺した件について、以下にメモする。「いじめ」の実態がどうであったかについて触れるため、今回は引用を多くする。但し、全文は引用していないので、気になる方は引用元が消える前に確認のこと。本件が遺族から読売新聞宛に提供された遺書がきっかけで、今回の滝川市教委謝罪会見に至ったことから、女児自殺の概要については先ず読売記事から引用する。

(2006年10月01日)読売:小6女児自殺、市教委が遺書の「いじめ」記述隠す
 女児は昨年9月9日朝、教室で、自転車の荷台用ロープで首をつっているのを、登校してきた級友に発見された。意識不明の状態だったが、今年1月6日に死亡した。

 女児は、教室の教卓上に、学校や6年生、母親あてなど7通の遺書を残していた。一部の遺書の中身は昨年10月12日、同小の校長室で遺族が読み上げ、職員が内容をメモした。

 安西輝恭(てるやす)・市教育長は翌月22日、報道関係者に「手紙の中には、友だちが少なかったこと、迷惑をかけてごめんなさいという趣旨のことが書かれていた」と説明し、「自殺の原因に直接結びつくようなことは書かれていなかった」と強調した。

 ところが、遺族が本紙に提供した学校あての遺書には、「5年生になって人から『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」「6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました」などと書かれていた。また、6年生全般にあてた遺書でも、冷たくされたことを訴え「それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました」とあった。ほかの動機は一切書かれていない。

 市教委は当時の発表について、「言葉を選んで話していたのは事実。(手紙の)具体的なことについては触れないと決めていた」と、内容を把握していながら発表しなかったことを認め、「(いじめを訴えていたという)言葉だけが先行することに慎重になった」と釈明している。

 市教委は、同級生から聞き取り調査を行うなどして原因を探ったが、現在も「死の直接的な原因は特定できない」としている。

 しかし、女児の同級生たちは、遺族の聞き取りに対し「(女児が)仲間はずれにされていた」ことや「集団的な陰口」があったことなどを認めている。

 自殺した女子児童が自殺の1ヵ月半前に「いじめ」について担任や友人に相談してこと、いじめの内容が如何なるものであったかについて、以下の読売記事と朝日記事から引用する。

(2006年10月02日)読売:滝川市の小6自殺、1か月半前に担任に友人関係相談
 文書は、学校側が事前に把握していた女児の様子について、「席替えのことや友人関係について担任に相談があった」「修学旅行の部屋割りで(女児一人がどのグループにも入れないという)問題が生じた」ことに触れていた。しかし、ともに「担任の指導で解決された」と説明し、いじめは否定していた。

 また、文書には6年生への聞き取り調査結果も記載され、「カッターの刃を手首に当てていた」「死にたい、と言っていた」など、自殺の兆候があったことを、多くの児童が証言していた。

(2006年10月02日)朝日:自殺小6、いじめ記した遺書 「みんなに冷たくされた」
 女児は昨年9月9日、教壇そばの天井にある「スクリーン台」に自転車の荷台のひもをかけ、首をつった。教卓に「死んだら読んでください」と書いた紙を上に、7通の遺書を残していた。

 学校への手紙には「3年生のころからです。私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」。6年生全員にあてた手紙には「私がいなくなってほっとしたでしょう」「みんなは私のことがきらいでしたか?」などと書かれていた。

 これまでの市教委の調査で、自殺の10日前にあった修学旅行の部屋割りを決める際、女児がどのグループに入るかをめぐり3度にわたって話し合いがもたれたことや、昨年7月上旬の席替えで、男子児童が「女児の隣になった子がかわいそう」と発言し、女児が担任に訴えていたことなどが分かった。いずれも担任が指導して、学校は「解決し、仲直りした」との認識をもっていたという。

 だが、自殺直前には同級生の一人に、「首つり自殺する 学校? 自転車ゴムひも たぶん9月中」などと、ほのめかす手紙を渡していたという。

 この日、遺書の内容が一部で報道されたことを受けて会見した安西輝恭・市教育長は、「ささいな言葉や行為であっても無視することはできないが、一方でその受け取り方は人によってさまざま。いじめを裏付ける決定的な事実は出てきていない」と述べた。今後、市教委として改めて経緯などについて調査するという。

 「いじめ」の実態と自殺した女子児童の家庭環境については以下の読売北海道版の連載記事から引用する。

(2006年10月03日)読売:<2>同級生の声集めた遺族
 女児について学校側は、「成績優秀で、自分の考えをしっかり述べることもできた。問題を抱え込むタイプではない」と話す。自宅でも、図書館から借りてきた20冊もの童話を読みふけるなど、「手のかからない子」だった。

 札幌で生まれて間もなく両親が離婚。母親と2人で滝川の男性宅に身を寄せた。一人っ子の女児は下級生の面倒もよくみていた。

 学校側の説明だけでは分からない、同級生の生の声を聞きたい。保護者の反発を覚悟で、電話や個別訪問での“聞き取り調査”に踏み切った。



 遺書に書かれた「悩み」は寝耳に水だった。だが男性には一つだけ思い当たることがあった。6年生の5月ごろから、それまで自宅に遊びに来ていた友達たちが突然来なくなっていた。

 男性は今年1月に女児が息を引き取った後も、4月までかけて、同級生や保護者計十数人に話を聞いた。「おじさん何でも知りたいんだ」「死んでも友達だよって言っていたあなたには、正直に教えてほしいの」と、真摯(しんし)に訴えた。聞き出した内容は、女児が疎外されている様子を生々しく伝えるものばかりだった。

 「ある女子の好きな男子をほかの子に漏らし、仲間外れにされた。『友達にならない方がいいよ』と言われ、クラスのほぼ全員に無視されていた」

 「体にまとわりつくので嫌われていた。暗い、気持ち悪いとも言われていた」

 「席替えで(女児の)隣になった男子が『かわいそう』と同情されていた」

 「ある女子が教室で『(女児を)嫌いな人は?』と言ったら、過半数が手を挙げていた」



 自殺を図る1週間ほど前、修学旅行があった。女児は部屋割りを決める際、どのグループにも入れてもらえなかった。担任教諭が8月18日と22日の2回にわたって話し合いをさせ、ようやく一つのグループに入れた。部屋割りとは別の「行動班」では、男子の班に1人だけ入った。

 残された修学旅行の写真で、女児は回転遊具に養護教諭と2人で乗って、ほほ笑んでいた。

 過疎化が進むこの地域では1学年1クラスしかなく、幼稚園から中学校までほぼ同じ顔ぶれ。その中で「はじかれる」と居場所はない。それでも学校に誰より早く登校し、休まず通い続けた女児。そのけなげさを思い、遺族の男性は肩を震わせ、ただ泣いた。

 遺族側のコメントに関して、この朝日記事と冒頭で引用した1日付読売記事から順に引用する。
 女児の遺族は事実関係を調査した上で、女児が自殺を図って1年になる今年9月、本紙に遺書を託した。母親(37)は「学校や市教委の説明ではとても納得できない。なぜ娘が死ななければならなかったのか、教えてほしい」と訴えている。(※1日付の読売記事)

 女児の母(37)は「いじめに気づいてやれれば、転校するなどの選択肢もあった。せめてトラブルに気づいた先生から、連絡の一本さえあれば」と話している。(※2日付の朝日記事)

 市教委側の対応と遺書の一部については、3日付の北海道新聞から引用する。

(2006年10月03日)北海道:滝川・女児自殺 市教委、会見で謝罪 「サインつかめず」
 会見の冒頭、安西輝恭教育長は「児童の心のサインをつかむことができず、まことに申し訳なく思っています」と謝罪した。続いて事故発生後に同級生への聞き取り調査などで原因究明に取り組み、心理カウンセラーによる全校生徒の心のケアに努めたことなどを説明した。

(中略)

 自殺した6年生の女児が残した7通のうちの2通の遺書の文面は次の通り。(表記は原文のまま)

■6年生のみんなへ
 6年生のことを考えていると「大嫌い」とか「最てい」と言う言葉がうかびます。(中略)みんなは私のことがきらいでしたか?きもちわるかったですか?私はみんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。(中略)さようなら

■学校のみんなへ
 この手紙を読んでいるということは私が死んだと言うことでしょう。私はこの学校や生とのことがとてもいやになりました。それは3年生のころからです。なぜか私の周りにだけ人がいないんです。5年生になって人から「キモイ」と言われてとてもつらくなりました。6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。(中略)何度か自殺も考えました。でもこわくてできませんでした。でも今私はけっしんしました。(中略)私はほとんどの人が信じられなくなりました。(中略)私は友だちと思える人はあまりいませんでしたが今まで仲よくしてくれて「ありがとう」「さよなら」



 学校現場には昔から「いじめ」は存在したし、今後も発生し続けるだろう。

 いじめられている側にとって、いじめられているという現実は非常に屈辱的で、その事実を「かっこ悪い」「恥ずかしい」と認識している場合(大抵の場合そうだろうが)、いじめられているという「恥」を外部に伝えず、抱え込んでしまうことがある。そのような場合、外傷のようなものがない限り、周囲も中々見抜けない。小学校高学年から中学・高校という思春期の児童・生徒が、「いじめ」という自身のセンシティブな問題について、周囲に助けを求めるということは大人が想像する以上に難しいことだと思う。

 教師や学校側が、絶えず生徒一人一人の変化に気を配り、「いじめ」の発生に注意するというのは、実際上は個々の教師への負担が重く、難しい。個々の教師の情熱や倫理観に頼るのには限界があり、「いじめ」が表面化する頃には深刻な状態になっていて、口頭での注意や保護で解決するような状況ではないかもしれない。仮に、「いじめ」の存在を知ったとしても、いじめている側にどのように注意・指導をし、いじめられている側をどのように保護するのかということは、個々のケース毎に対応の異なる問題で、一律な解法がある訳ではない。


 この点、我が子の事なのだから、先ずは教師や学校に頼るよりも、両親が我が子の悩みや変化に気付くべきであり、それを棚上げして学校や市教委を批判することは筋が違うという人がいる。

 確かに、親が「我が子の事でありながら、何故、気づけなかったのか」という問題はある。しかし、例えば共働き家庭であれば子供と接する時間はどうしても限られてくるし、先述したような思春期ゆえの「恥」の意識に阻害されて、たとえ家族であっても立ち入って伝えられないこともある。両親の苦労を知っているからこそ、伝えられずにいるという子供もいるだろう。

 この辺りは各家庭の事情もあり、本件について一概には判断できないが、親より多くの時間を接している学校現場の対応に期待を寄せ、その期待ゆえに裏切られた時に怒りを向けるということは、感情的には仕方が無い。だからといって両親が自身の責任に無頓着なのかといえば、おそらくそのようなことはないのではないか。「なぜ、あの子が悩んでいたことに気づいてあげられなかったのか」という思いは、我が子の自殺により一生抱えていくのではないか。メディア報道は紙面の字数の都合、放送枠の都合で、遺族の思いを全て伝えられるものではない。

 この場合に「我が子の事でありながら、何故、気づけなかったのか」と問うのであれば、遺族側のみならず、積極的にいじめていた側、消極的にいじめていた側、傍観していた側の親にもまた向けられるべきものだと考える。日頃から子供と対話していれば、傍観者の家庭であっても「誰々が誰々をいじめていて…」という会話が出て来るかもしれない。学校における「いじめ」は各児童・生徒の加担行為の濃淡はあれ、教室という学校現場で起こっているということを考えると、その現場に立ち会っているもの全ての親に、その問いは突きつけられて然るべきだろう。


 また、これまでも学校現場には「いじめ」が存在していたにもかかわらず、今回の件でメディアが殊更に市教委を批判しているのは「偽善」であるという批判も目にした。しかし、今回の事例はメディアの力に頼らなければ「いじめ」による自殺であると明らかにならなかった事例である。ネット言論が反メディアの性質を備えているとしても、メディアがその当然要求される役割を果たした時にさえ、反メディアという姿勢で対応するのは妥当であるとは思えない。

 今回の件で問題になっているのは、学校側が「いじめ」に気づかなかったこと自体よりも(1)昨年9月9日に(2)教室で首を吊り(3)教卓には遺書が七通もあって(4)今年1月6日に女児が死亡したにもかかわらず(5)遺族が読売新聞宛に遺書を提供するまで(6)遺書にいじめに関する記述があったことを公表せず(7)10月1日の謝罪会見でも(8)いじめが原因とは特定できないと説明している、という点だろう。

 教室で自殺したということは、自分の存在を死によって両親以外の他者にも伝えたいと考えたからだろう。その他者が、いじめていた同級生であったり、傍観していた同級生であったり、担任の先生であったり、仲の良かった少数の友人であったり、或いは、同級生の保護者であったり、社会であったり。当該女子児童にとっては最後の意見表明であり、生きている間に自分の声を聞き入れてくれて「いじめ」が止んでいれば、そのようなことには至っていなかっただろう。


 当時、小学6年生ということは、生きていれば現在は中学1年生。問題となった小学校(現在そのHPはアクセス不能)の校区からは、どの中学校に振り分けられるのかは分からないが、積極的にいじめていた同級生、消極的にいじめに関わった同級生、傍観していた同級生、彼らは皆、中学生になっている。

 事前に「いじめ」の存在・実態に気づけなかったとしても、それらが自殺行為と遺書の存在によって明らかになった後は、関わった同級生が進学して小学校を去る前に聞き取り調査をすべきであり、また、その学級で「いじめ」や「同級生の死」について向き合うような学習をすべきであった。仮に、学校側・市教委側が、同級生が卒業するまで「いじめ」の存在を伏せてやり過ごそうとする意図があったとすれば、そのことは大いに問題視されるべきである。

 その点は、両親の責任とは別に論じられるべきことであり、遺族感情を拗らせてしまった要因は、学校側・市教委側の対応にあるのではないかと考える。


 その他、この報道に関して幾つか気になったことについて。

 この件に関して体罰肯定論を持ち出す者がいた。しかし、学校現場に体罰教師がいたからといって、それによって本件のような「いじめ」が未然に防止できた訳ではない。それは体罰という「いじめ」とは異なる問題を学校現場に持ち込んで、問題を複雑化させるだけである。この機に体罰肯定論を持ち出そうとする者は、体罰と「いじめ」予防との因果関係について先ず明らかにすべきである。本件の「いじめ」という面に着目すれば、周囲が「いじめ」の存在を認識できたか、対策を講じたかという問題であり、事後的には学校および市教委の遺書隠蔽という問題である。

 自身のいじめていた経験、いじめられていた経験から本件について論じる者もいた。しかし、「いじめ」に関する経験も「いじめ」解消に関する経験も、人によって詳細は異なる。自身が「いじめ」から学んだ経験が、現在いじめられている状況に悩んでいる子供に即当て嵌められるものとも限らない。自身の経験を根拠に本件を論じたとしても、それが必ずしも正しい解を導くとは限らない。むしろ、いじめられた子や自殺した子に鞭打つ場合もある。

 こういう問題では細部における違いが重要であり、幾つかのメディア報道だけで「被害者はこうすれば良かったのに」という論じ方をするのは、おそらく事件とは向き合っていない証左だろう。あくまで「私の場合はこうして助かった」という程度に留めておいた方がいい。それでも意見表明するのであれば、この事件を消費しているという自覚だけは持っておいた方がいい。「いじめ」問題を自身の経験だけを根拠に語ると、自分語りに陥ること可能性があるので、注意を要するものと考えて欲しい。


 なお、識者の意見には以下のようなものがある。

(2006年10月01日)読売:自殺の小6女児が遺書でいじめ訴え。滝川市教委が隠す(北海道)
 いじめ問題の著書が多い国語作文教育研究所長・宮川俊彦さんの話「言葉のいじめが動機だったと公表すると、同級生は委縮し、自由な会話ができなくなってしまうかもしれない。それでも事実は子供たちに伝え、子供自身に考えさせるべきだろう。『自殺はなぜ起きたのか』『もしも……していれば』『今後どうすればよいか』。教師が『命は大切なもの』と結論だけを与えても教育にならない」

 いじめに関する著書のある社会評論家・芹沢俊介さんの話「いじめる側は大勢なので加害の意識は薄い。だから学校に対して『いじめていない』と言い、学校や市教委もそれを信じてしまう。事実から目をそらしてはだめだ。学校にもいじめに気付かなかった責任があるのに、事実を隠すのは自分たちの責任逃れにほかならない。学校も児童も事実を知ることで、遺族に『申し訳なかった』と謝罪できる。そういう形でなければ遺族の心も休まらない」

 大阪府堺市の元教育長の野口克海・園田学園女子大教授の話「この自殺のニュースは覚えている。女児がいじめを訴えていたのが事実なら、それを隠すのはおかしい。児童への影響を理由に訴えの内容を隠すことで、学級内に問題が起きていることを気づけなかった教師や学校の責任までがうやむやになる。ひとりぼっちの子の存在に気づけなかった教師の問題点に、教育委員会が正面から向き合って総括しないと、保護者の信頼は得られないと思う」

(2006年10月2日)読売:<1>サインはあったが…
 少年問題に詳しいジャーナリスト江川紹子さんの話「いじめで自殺する子供は家族や教師に悩みを伝えられず、自分で抱え込んでしまう子が多い。本人にとっては、悩みを打ち明ける行為自体がとてもつらいことだからだ。それでも、持ち物を壊されたり、隠されたりするタイプのいじめなら周囲の大人も異変に気付くが、言葉によるいじめや仲間外れだと発見しにくい。学校側も女児の予兆になぜ気付けなかったのか、何が足りなかったのかを子供たちと一緒に真剣に考える必要があったと思う」

 文部科学省による、「いじめ」の定義は次の通り。

文部科学省:生徒指導上の諸問題の現状について(概要)
(注)いじめについては,「@自分より弱い者に対して一方的に,A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え,B相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。」ものとして件数を把握した。

 ネット上での反応については、以下のサイトの本文とコメント欄なども参照。

(2006年10月03日)痛いニュース(ノ∀`):自殺の女児「キモイと言われ…」と遺書に→市教委「いじめの言葉が無いからいじめじゃない」…「いじめ苦」隠しで

 上記リンク先本文の末尾にあるアフィリエイトでは、松谷みよ子著・味戸ケイコ画『わたしのいもうと』という童話が紹介されている。その商品説明の項には次のように書かれている。
妹をいじめた同級生たちは、そんなことなど忘れて中学生になり、高校生になっていきました。


関連エントリー
(2006年10月06日)滝川市教委遺書隠蔽事件を時系列で見る
(2006年10月07日)「心のケア」と「吊るし上げ」
(2006年10月12日)スッキリ!(10月6日放送分)滝川市教委謝罪会見部分テキスト起こし
posted by sok at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめ・教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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