2006年09月23日

国旗・国歌と思想・良心の自由

 東京都の教職員が式典での国旗・国歌に対する起立・斉唱義務がないことを確認する訴訟の判決が、一昨日、東京地裁で出た。難波孝一裁判長は違反者の処分についての都教委の通達と校長の職務命令を思想・良心の自由の観点から違憲と判断した。この判決についての現時点での感想をメモも兼ねて書いてみる。東京地裁判決の要旨は下記の毎日新聞で確認のこと。(追記:判決要旨全文をテキスト化しているサイトのリンクも参照のこと)

(2006年09月22日)毎日:国旗・国歌訴訟:東京地裁判決(要旨)
(2006年09月21日)判決要旨 News for the people in Japan


 先ず、国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)は国旗である「日の丸」のデザインを定め、国歌である「君が代」の歌詞を定めているに過ぎず、この法律には国民に国旗・国歌への何かを強制させる文言がないことを確認しておく。国旗国歌法には、その制定により、法律の改廃によるデザインと歌詞の変更を許す余地を生んだという面もあるが、法律として制定している以上、その内容は確認する必要はある。その上で、学習指導要領に基づく通達と校長の職務命令による強制の是非が本訴訟では問題になっている。

 次に、小泉首相の本判決への感想について。

(2006年09月21日)朝日:国旗や国歌に敬意「法律以前の問題」 判決で小泉首相
 小泉首相は21日夜、入学式や卒業式で国歌斉唱などを強要した東京都教委通達を違法とした東京地裁判決について「法律以前の問題じゃないですかね、人間として国旗や国歌に敬意を表するのは。人格、人柄、礼儀の問題とか(だと思う)」と語り、強要によらず、礼儀作法として国旗・国歌に敬意を表するべきだとの考えを示した。

 小泉首相はこの判決について「法律以前の問題じゃないですかね。人間として国旗や国歌に敬意を表すのは」と述べているが、ここは「人間」ではなく「国民(国家の成員)」と言うべきではなかったか。記者の質問に即答したために厳密さを欠いた感がある。国家あっての国旗・国歌である以上、国旗・国歌は後国家的存在である。他方、思想や良心は人間が存在すれば国家が無くても成り立つことから、前国家的価値といえる。

 では、前国家的価値が後国家的価値に必ず優先するかというと、そうではないだろう。個人の思想・良心の自由は、それが内心に留まる限りは憲法19条により絶対的に保障される。しかし、本訴訟において争点となっているのは、学習指導要領に基づく通達と校長の職務命令による強制の是非である。その際、(1)個人の思想・良心の自由から発現した行為であること(2)国公立学校の教職員すなわち公務員の地位、この二点が重要であると考える。

 ※以下、コメント欄で御指摘頂いた点、その他の事実誤認等について訂正しました(同日13:50頃追記)。


 判決要旨から。日の丸・君が代についての説明のところに「日の丸、君が代は明治時代から第二次世界大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられたことがあることは否定し難い歴史的事実である。国旗・国歌法が制定された現在も、宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるには至っていない。入学式や卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱に反対する国民も少なからずいる。」とあるが、過去のある一時期における歴史的事実はともかくとしても、現在における宗教的・政治的価値中立性は、価値相対的な日本社会においては、これからも永遠にやってこない。

 日の丸・君が代には、戦後61年の平和(尤も、それは拉致被害者と特定失踪者および其々の御家族の犠牲の上に成り立った平和であるが)と軍国主義化以前の戦前の歴史がある。ほんの一時期を持ち出せばキリが無い。こういう達成不可能なことを傍論で述べる当該裁判官の見識を疑う。無理を強いることは難癖である。そのような裁判官個人の価値観を披露しなくとも、その論旨を伝えるには直後の文章で足りる。(追記:但し、各新聞社の判決要旨ではなく判決文自体を読むと、難波孝一裁判長はイデオロギー的に右や左に偏向した人物だとは思えない


 私は日の丸・君が代に軍国主義を感じない。過去一時的に軍国主義との関連を持っていたとしても、それは我が国で日の丸や君が代が慣習的に使用された歴史の中のほんの一時期に過ぎない。一時を以って、まるでそれが全てであるかのように捉えることは適当ではない。以前、戦時中に敵国製という理由で西洋人形の所持が官憲によって取り締まられた当時保母だった女性の話(官憲の目に隠れてその西洋人形を守った神戸の老女の話)を夕方のニュース番組で観たが、その戦時中の話に通じる嫌な風潮だと思う。

 しかし、一方では日の丸・君が代を今の時代においても軍国主義の象徴と考える人達もいる。そうではなく、国旗・国歌というものが過去の一時期そうであったように、戦争行為への動員装置としての役割を今後も果たし得るのではないかという点から、その強制を反対している人達もいると思う。これは靖国神社参拝問題における国家による顕彰自体を問題視する考え方にも通じる。そういう人達の思想・良心もまた尊重されなければならない。それが内心に留まる限りは、憲法19条によって絶対的に保障される。

 日の丸・君が代が軍国主義を象徴するものかどうかはともかく、国旗・国歌は法律に定めがなくとも慣習として国家を象徴するだろう。東京都が強制したものが軍国主義としての日の丸・君が代だとは思わないが、国家を象徴するものとしての日の丸・君が代については強制したといえる。国家を象徴するものというだけで現時点において特定の思想といえるかは分からないが、無政府主義者や先述した将来の戦争動員を拒否する立場の人達もいることを考えると、そう捉えられる余地はある。

 ただ、国家を象徴するものというだけで現時点において特定の思想を象徴するというならば、義務教育自体が個々の人間を国民化(国家の成員化)させる装置であり、特定の思想を象徴するものといえなくもない。生徒・児童は教育を受ける権利の主体ではあるが、現実には義務教育課程においては数多の事柄が生徒児童に強制されている。強制性のみを問題にし、それが罷り通るのであれば、厳密には義務教育は成り立たない。国公立学校においては、特定の思想を象徴するものとして一般的に認識され、かつ、それが内心にまで強制されない限り、他の義務教育内容と公平に扱うべきである。


 憲法19条「思想・良心の自由」からは(1)特定の思想・良心の強制禁止(2)思想・良心を理由とする不利益取り扱いの禁止(3)沈黙の自由が導き出されるが、今回の訴訟に関しては、思想・良心の自由について内心領域一般を保障するものと解する立場(内心説)であっても、良心を思想の内面化と捉え思想と良心を一体的に把握する立場(信条説)であっても、外部的行為については表現の自由により思想・良心の自由の表出として検討するべきだろう。

 起立・不起立、掲揚・不掲揚、斉唱・不斉唱に関しては、内心を出た外部的行為である。私人や私立学校の教職員ならばともかく、原告側は国公立の教職員すなわち公務員である以上、公務員に課せられる職務行為としての制約と個人の思想・信条の自由から発現した外部的行為との衝突という観点から考えるべきである。面従腹背、起立や斉唱しながらも内心で舌を出す、そういったことが許容されることが内心の自由だろう。まして、自らの思想・信条に従うならば、我が国には私立学校への就職という他の代替手段が存在する。その代替手段は、家庭の経済的理由その他から、国公立に通わざるを得ない生徒・児童の立場と比較しても困難な選択ではない。


 少し脇道に逸れるが、本訴訟においては、教職員側の個人の思想・信条の自由と都教委側の学習指導要領に基づく通達に公務員が従う義務が争点だったが、生徒・児童およびその保護者の側から見れば、国公立学校の教職員は公務員であり、公権力の側になる。卒業式で感涙する生徒・児童が存在することを考えると、毎年、入学式・卒業式の季節に式の妨害を図る教職員は、入学式や卒業式という公行事を平穏・円滑に受ける生徒・児童の権利を侵害しているといえる。国旗・国歌に対して不起立・不斉唱という不作為を実施する教職員も程度の差こそあれ、この生徒・児童の権利を侵害している。

 冒頭の毎日新聞の判決要旨では、訴えの適法性を斟酌するに当たって「入学式、卒業式が毎年繰り返されることに照らすと、侵害の程度も看過しがたい。原告らは事後的に懲戒処分の適否を争ったのでは回復しがたい重大な損害を被る恐れがあり、訴えは適法と言うべき。」とあるが、入学式や卒業式は生徒・児童にとっても各学校において一回限りの重要な行事である。そうである以上、生徒・児童の権利もまた、妨害が発生してからの事後的処分・事後的救済では回復不可能である。

 精神的自由権に関わる以上、事後的救済が困難であるとしても、教育現場では入学式・卒業式は毎年執り行われるものであり、それは教職員側にも自明であり充分に予見可能である。我が国には私立学校への就職・転職という代替手段があり、私立学校も多数存在することを考えると、精神的苦痛を毎年感じる状況を回避する術は存在するといえる。そうであるならば、その上で国公立学校を今なお選択している以上は、その職務規定に従うことには道理がある。国公立学校における一部の教職員の思想・信条から発現した行動によって、学校全体の行事という公共の福祉や生徒・児童という他者の権利を害することは妥当ではない。


 判決要旨に戻って気になった点を指摘すると、通達の各内容に触れた後で「とすると、通達や指導は、教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し、一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しい。教育基本法が規定する不当な支配に該当するものとして違法と解するのが相当で、憲法19条の思想・良心の自由にも反している。」と述べている。憲法19条に関する記述より前のところは、教育の自由や教育内容決定権の所在についての問題であり、むしろ憲法26条によって考えられるべきだと考える。(追記:原告側の訴えの中では憲法26条も根拠とされている

 また、「式典の妨害行為ではないし、生徒らに国歌斉唱の拒否をあおる恐れもない。教育目標を阻害する恐れもない」という部分については、広島県立世羅高等学校における石川敏浩校長自殺事件が教職員からの糾弾と非協力を背景に起きたこと、現実に式典の妨害行為が行われた東京都立板橋高校の元教員の事例も存在すること(但し、刑罰という処分は重過ぎる)等を看過しており、そのような経緯を考えると、校長の裁量権を認めることで各校の校長が精神的に追い詰められることも充分考えられる。(追記:積極的行為の事例と消極的行為の事例を同列に論じる意図ではない

 教育の機会均等の見地からは、各学校の裁量に拠るのではなく、通達で一律に定めることにも一定の道理がある。職務命令違反の教職員に対する処分についても「1回目は戒告、2回目及び3回目は減給、4回目は停職との基準で懲戒処分にした」とあるように段階的である。

 本件における原告側の起立・斉唱の拒否を個人の思想・信条の自由から発現した外部的行為と捉えた場合、それは表現の自由の領域であり、他方には公務員としての職務忠実義務や学習指導要領に基づく通達と校長の職務命令による強制の是非がある。とすれば、公務員の人権が一般国民の人権と異なる制約に服する根拠、例えば公務員関係の存在(憲法第15条第2項)や行政の立法に対する自立性(憲法第73条第4号)が憲法秩序を構成している点を確認した上で、当該表現の自由(憲法第21条第1項)が公共の福祉(憲法第13条)による必要最小限度の制約に服するものか否かを、都教委は考慮すべきであったし、東京地裁もその判断基準を示すべきであったと考える検討することになる。

 以上のことから、学習指導要領に基づく通達と校長の職務命令を一律に違憲とするのは妥当ではないと考える。但し、個人の思想・信条の自由から発現した外部的行為であっても、精神的自由権に属するものである以上、その制限は必要最小限の範囲内でなければならない。判決要旨において通達に基づく義務として挙げられるもののうち、他の事柄はともかく「(5)定年退職後に再雇用を希望する教職員に職務命令違反があった場合、再雇用を拒否した」については、違憲の可能性が強いと考える。現職の教職員で職務命令違反による処罰を受けた者が再雇用も拒否されることは二重の処罰であり、都教委が通達を発した時点で定年退職であった者の再雇用を拒否するのは処罰が遡及することになり、通達の目的を達成するに当たっての外部的行為に対する必要最小限の制限とはいえない。


 判決要旨以外で気になったことについて。

(2006年09月22日)毎日:<国旗国歌>学校強制に違憲判決 教職員401人が全面勝訴
 ▽原告団、弁護団の声明 思想・良心の自由の重要性を正面からうたいあげた判決で、わが国の憲法訴訟上、画期的だ。教育への不当・不要な介入を厳に戒めており、教育基本法改悪の流れにも強く歯止めをかける内容だ。

 当該裁判は、個人の思想・良心の自由と学習指導要領に基づく通達と校長の職務命令による強制の是非についての問題であるのに、それに対する原告団・弁護団の声明中には「教育基本法改悪」という別の問題が語られて居る。原告側は、元よりイデオロギー色の強い人達なのだろう。彼らには生徒や児童や保護者の観点、そして自らが公務員であるという自覚が抜け落ちている。同記事には「判決は、国旗国歌の生徒への指導が有意義であることを認めつつ」ともあるが、彼らはこの点をどのように受け止めているのかが気になった。


 他に、9月22日付の東京新聞の社説にも注目しておく。

(2006年09月22日)東京:国旗国歌判決 『押しつけ』への戒めだ
サッカーやオリンピックで日の丸の旗を振り、君が代を口ずさむのは、誰に強制されたわけでもない。国旗とか国歌とは、もっとおおらかに考えていいのではないか。

 そうであるならば東京新聞の社説子は、今後、二度とスポーツナショナリズムを主張すべきではない。W杯や五輪の時期には、日の丸ペインティングや君が代斉唱を理由に、ある種の思想傾向の人達が散々「若者の右傾化」論を主張していたが、今後、東京新聞がそのような者達に組することはないというのであれば、その路線変更を歓迎する。上記、リンクが切れた際は下記blogを参照。

(2006年09月22日)mumurブルログ:朝日・東京・増田「東京地裁偉い」/産経・読売「裁判官がおかしい」


【同日13:50頃追記】

 本文中の「東京地裁もその判断基準を示すべきであった」という部分を訂正しました。下記pdfファイルの判決要旨だけをとっても、その判断基準は各新聞社の判決要旨より詳細で明確でした。基本的事実の誤認について訂正します。pdfファイルでは読みにくいという方は、その下の判決要旨をテキスト化しているサイトで御確認下さい。

東京地裁判決 要旨(pdf)
東京地裁判決 全文1(pdf)
東京地裁判決 全文2(pdf)
東京地裁判決 全文3(pdf)

20060921判決要旨 News for the people in Japan


 一つ目のpdfファイル(判決要旨)の13頁から14頁にかけての文章を読むと、難波孝一裁判長が双方の利益について検討し、配慮している様子も伺えました。特にイデオロギー的に左右に偏向した人物ではないものと思います。その部分を引用します。
 国旗・国歌法の制定・施行されている現行法下において,生徒に,日本人としての自覚を養い,国を愛する心を育てるとともに,将来,国際社会において尊敬され,信頼される日本人として成長させるために,国旗,国歌に対する正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。そして,学校における入学式,卒業式等の式典は,生徒に対し,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わさせ,新しい生活への動機付けを行い,集団への所属感を深めさせる意味で貴重な機会というべきである。このような入学式,卒業式等の式典の意義,役割を考えるとき,これら式典において,国旗を掲げ,国歌を斉唱することは有意義なものということができる。しかし,他方で,このような式典において,国旗,国歌に対し,宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張に基づいて,国旗に向かって起立したくない教職員,国歌を斉唱したくない教職員,国歌のピアノ伴奏をしたくない教職員がいることもまた現実である。このような場合において,起立したくない.教職員,斉唱したくない教職員,ピアノ伴奏したくない教職員に対し,懲戒処分をしてまで起立させ,斉唱等させることは,いわば,少数者の思想良心の自由を侵害し,行き過ぎた措置であると思料する次第である。国旗,国歌は,国民に対し強制するのではなく,自然のうちに国民の間に定着させるというのが国旗・国歌法の制度趣旨であり,学習指導要領の国旗・国歌条項の理念と考えられるごこれら国旗・国歌法の制度趣旨等に照らすと本件通達及びこれに基づく各校長の原告ら教職員に対する職務命令は違法であると判断した次第である。

【10月23日追記】

 都の国旗・国歌訴訟とは異なるが、下記のような事例もある。

(2006年10月23日)朝日:君が代演奏妨害、教員の戒告処分を取り消し 北海道
 北海道倶知安町の町立中学校の卒業式で「君が代」演奏を妨害したとして、戒告処分を受けた男性教諭(49)について道人事委員会は23日、処分取り消しの裁決を通知した。裁決では「個人の思想の自由を侵害するもので、処分は懲戒権の乱用にあたる」としている。

 裁決によると男性教諭は01年3月の卒業式で、校長がカセットデッキを持ち込んで君が代の演奏を始めたところ、カセットデッキを持ち去り、演奏を止めた。道教委は同年7月、君が代の斉唱を明記した学習指導要領に従わなかったなどとして、地方公務員法に基づき教諭を戒告処分にした。

 道教委の処分を不服とした教諭が、01年9月に人事委に対して処分取り消しの申し立てをしていた。

 音楽教師にわざわざ君が代を演奏させなくともカセットテープで代替できると主張する者もいるが、現にカセットデッキを持ち去って妨害する者もいる。勿論、この北海道の事例は東京都の事例とは別個の問題であるが、ある種のイデオロギーに凝り固まった人達の間では、このようなことが起こり得るということは認識しておいてよいだろう。一般教職員の畏縮と生徒・児童の卒業式が妨害されること、行政は両者を比較して適切な対応をとらなければならないが、それとは別に一部の教職員の実態はよくよく認識しておいた方がいい。


関連リンク

日本国憲法 第15条、第19条、第21条、第26条
国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)
教育基本法 第10条
地方公務員法 第29条、第32条
地方教育行政の組織及び運営に関する法律 第43条の2

学習指導要領における国旗,国歌の取扱い
学習指導要領における国旗,国歌の取扱いの経緯
諸外国における国旗,国歌の取扱い
学校における国旗及び国歌に関する指導について(通知)
「国旗及び国歌に関する法律」主要国会審議状況
「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について(通達)」の発出について
教育庁:入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について

「日の丸」「君が代」処分事例集(要旨)
諸外国における国旗,国歌の取扱い
posted by sok at 06:30| Comment(8) | TrackBack(2) | 憲法・裁判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>毎年、入学式・卒業式の季節に式の妨害を図る教職員

積極的なものと消極的なものを同列に論じることはできないものと思います。

>本件における原告側の起立・斉唱の拒否を個人の思想・信条の自由から発現した外部的行為と捉えた場合、それは表現の自由の領域であり

「思想・良心の表出」のうち、特に意に反することにたいして行われる行為を「表現の自由」プロパーの問題であると判断するのは一般的でないと思いますが。特に「伝達」を主目的になされるものではないし、国歌斉唱がなければそもそもおこなわれることがない行為であるものですから。

>公務員の人権が一般国民の人権と異なる制約に服する根拠

特別権力関係論をとられる方ですか?
Posted by コノハズク at 2006年09月23日 08:34
背景が黒なのは良いですが文字が見え難いのです。背景が黒なら白い文字に変えてください。又は普通の白の背景に黒文字でお願いしたいです。見易い、読み易い紙面をお願いします。内容、中身が不明とか分かりずらいです。
Posted by ようちゃん at 2006年09月23日 08:42
>>公務員の人権が一般国民の人権と異なる制約に服する根拠

>特別権力関係論をとられる方ですか?

この部分は削除します。
Posted by コノハズク at 2006年09月23日 11:03
 コノハズクさん、コメントありがとうございます。

>積極的なものと消極的なものを同列に論じることはできないものと思います。

 同列に論じたつもりはありませんが、判決要旨で「日の丸、君が代は明治時代から第二次世界大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられたことがあることは否定し難い歴史的事実である。」と戦前からの経緯(といってもほんの一時期のみ)を持ち出すのであれば、国旗国家法制定や本件通達に至る経緯として広島県立世羅高等学校における民間人校長自殺事件や現実に式典の妨害行為が行われた東京都立板橋高校の事例についても判決内で一考されてしかるべきだと思いました。

 都教委の通達は、各校長の裁量を許さない強制的なものであった点で、これまでの国旗国歌を巡る判決からは違憲の疑いが強いですが、校長の裁量に任せていては死者が出るという状況もあり、その点は斟酌されるべきだと思います。


>>本件における原告側の起立・斉唱の拒否を個人の思想・信条の自由から発現した外部的行為と捉えた場合、それは表現の自由の領域であり

 この点は「思想・良心の自由」の外部的行為に留めておくべきでした。御指摘ありがとうございます。


 ようちゃんさん、コメントありがとうございます。

 当blogの背景は白色で、文字は黒色(灰色)です。
Posted by sok at 2006年09月23日 13:28
sokさん、こんにちわ。

この判決については、ほとんどのblogでイデオロギー対立的な意見しか目にしていませんでしたので、とても参考になりました。

sokさんとは意見が違いますが、この判決について自分でも記事にしましたのでトラックバック致します。
雑な記事で恐縮ですが、よろしければごらん下さい。

自分の中では、国家→教師→生徒という「強制の仕組み」について、それ以外の方法はないものだろうかという点に引っかかりがあり、こだわりがあるのだろうと思っています。
Posted by ひげたま at 2006年09月24日 23:40
 ひげたまさん、コメントありがとうございます。

 意見の違いについては、人それぞれ、当然のことなので気にしないで下さい。判決に関するネット上の評価については、ひげたまさんと同じく、イデオロギー対立的な見解が多かったように思いました。

 そのような見解の中には『思想信条の自由を保障しているのは日本国だから、思想信条の自由を大事に思うなら、その日本国の象徴である「日の丸・君が代」に感謝しなければならない』というものもありました。しかし、思想・良心の自由を保障しているのは憲法であって、その憲法は権力の濫用を規制する国家の基本法なので、このような批判は国家権力と憲法の関係を無視するものです。判決を批判するにしても、そういう批判が反論の主流になるのは好ましくないです。

 それと、難波孝一裁判長への批判として「反日」というレッテルを貼るものもありました。今回、エントリーをupするにあたり、毎日新聞社の判決要旨に拠って書きましたが、後にpdfファイルの判決要旨と判決文を見つけて読んでみたら、難波裁判長が双方の価値観にかなりの配慮を巡らせた後が伺えました。そうすると、あとは個人の思想・良心の自由と公務員の職務行為や「公共の福祉」について、今回どちらをより重視するかということだと思います。その点で、私は難波裁判長と結論は違いますが、裁判長が偏向した人物ではないと感じました。

 問題の性質上、イデオロギー対立は仕方ないですが、そこで自由や権利といった基本的な価値観自体を胡散臭いもののように捉えたり、一律に厳罰化を望む風潮になったり、レッテル貼りがなされたりという点が気になったので、こういうエントリー内容にしました。おそらく、裁判長次第では判決が別れる微妙な問題であり、今後、最高裁まで争われることになるのではないかと思います。


>「空気を読む」
 これは使われ方次第で見方の変わる表現ですね。「他人に配慮する」や「機転を利かす」という自発的なレベルと、暗に周囲から圧迫されるようなレベルと。後者の場合でも事柄によりますが、例えば先日の乙武氏や河野太郎議員のblog炎上を容認するために使うのであれば問題だと思います。「空気を読む」は、状況によっては互助・共助というよりも同調圧力になる表現で、使い手の意識の試される言葉だと思います。
Posted by sok at 2006年09月25日 12:49
 原告の本心は国旗・国歌に対する扱いは教師の勝手であるということでしょ。
 「教師が生徒に対して国旗・国歌に対する敬意を払わないようにする教育」にペナルティを与えるのは「教師の自由」を奪うので憲法違反であると。

 厳密な裁定で判断する人なんてほとんどいないでしょうね。
 いかに自分にとって事実・道理を都合よくねじ曲げるかの情報のパワーゲーム。
 マスコミは道理の正しさなんて屁みたいなものだとよくわかっていらっしゃいますからね。
 実際に詳細に説明してもそれを丹念に見る人なんていないでしょうから。
 大マスコミの俺様が貴様ら愚民のために短い言葉で説明してやる、俺が連れてきた権威ある識者もこう言っているんだ、ぐだぐだ言わずに「その通りでございます」とありがたく受け止めろ、と。
 それっぽい言葉で大衆の心をつかんだものの勝ちってことですよ。

 それにしても自由っていい言葉ですよね。
 麻原の逮捕は宗教の自由を侵すものであり憲法違反、ってね。
 大事なのは自分の自由で他人の自由なんてくそ食らえ。
 「(自分の)自由は(他人を踏みにじっても)守られるべきです」
Posted by 万打無 at 2006年10月09日 01:20
 万打無さん、コメントありがとうございます。

 個人的には、この問題をイデオロギー対立的な見方だけで判断してよいものかと思う点が二つあります。一つは、卒業式における日の丸・君が代の取り扱いについて校長の裁量を認めてしまうと、一部の過激な教職員が校長に圧迫をかけてしまう点で、世羅高校の事例では県教委側のサポートが不十分で自殺してしまっていることをどう受け止めるかということ。もう一つは、日の丸・君が代を嫌っているわけでもなく、その大切さを生徒に伝えることを嫌とは思っていないから、原告団のように訴訟を起こしてまで反対するほどではないけれど、国から強制されることには戸・いを感じているという人達の存在。都教委側の処分を全面的に肯定すると、対立の余波を受けるこれらの教師を殊更萎縮させることになりかねません。

 義務教育における「義務」とは何かといえば、両親の「教育を受けさせる義務」であり、その義務と対になる権利といえば、子供の「教育を受ける権利」です。そうであるならば義務教育というものは、生徒・児童の「教育を受ける権利」を中心に考えるべきであり、教育内容に関与する国・教師・両親の権利は、教育現場においては生徒・児童の「教育を受ける権利」と調和する形で実現されることが望ましいと思います。そして、子供とは何かといえば、識者によって定義付けはそれぞれでしょうが、例えば次代の主権者や生活者といった捉え方もできます。次代の主権者・生活者を育成するという点で、学校行事の中でも生徒・児童にとって特別な行事である卒業式において、日の丸・君が代の取り扱いについて形式的に従い、円滑に式を進行させることは、教職員の思想・良心の自由の表出行為に対する調和として許容範囲内であると思います。

 個々の行き過ぎた処罰のみを違憲として対応するのではなく、国家と教職員との関係で教育の強制的側面を殊更取り上げて忌避してしまうと、教師と生徒・児童との関係での強制的側面を忌避されても仕方ない状況を招きかねません。そのような状況では、小一問題や学級崩壊といった多くの生徒・児童の「教育を受ける権利」にも関わる問題に対して、教育の強制的側面ではなく個々の教師の指導力に依存した解決法に頼らざるをえません。しかし、教師の指導力というものは個々の教師の力量ですから、個々の教師への負担は大きくなり、かつ、指導に失敗すればその教師は指導力のない教師という評価になります。一部の教師のイデオロギー的充足によって、教育現場が混乱し、学級崩壊等の現象自体が存置されたり、都教委側の過度の処罰によって大多数の教職員の萎縮を招くということは、いずれにしても生徒・児童の「教育を受ける権利」の観点から妥当ではないと思います。


 御指摘の件について。

 マスコミ報道に関しては、それを「情報のパワーゲーム」と捉えて、個々人の中でバランスが取れるのならば、それも一つの対処法です。ただ、実際には行き過ぎた揺り返しもありますし、個々の問題に直面している人達を置き去りにしたイデオロギー対立に陥ることもあります。その対立の激化によって、政治問題・社会問題への不信感・無関心を助長させたのでは大衆の心を掴んだことにはなりませんし、或いは、思考の起点がマスコミ報道であるために、メディア側の方針やコメンテーターの態度次第で統一性を欠いた場当たり的な反応になり、国民の思慮と寛容さを損なうこともあるでしょう。ネット言論の反メディアという気風は、マスコミのそうした「パワーゲーム」的手法(イデオロギーのみならず隠蔽・捏造・歪曲といった手法)に忌避感を抱いているからこそ強くなったのだと思いますが、そうであるならば、ネット言論が、或いは、反既存メディアという立場の人が同様の手法で対抗したならば、同様の反感を招くことは容易に想像できます。その種の「パワーゲーム」においては既にネットワークを構築しているマスメディア側が有利ということもあります。パワーゲームによる落とし所のみならず、基本的な価値観を確認した上での道理面での説得も重要だと思います。

 「麻原の逮捕は宗教の自由を侵すものであり憲法違反」に関しては初耳でしたが、麻原彰晃こと松本智津夫の弁護団の弁護手法には呆れた記憶があります。弁護団が控訴趣意書を提出しなかったことで高裁による控訴棄却を決定し、最高裁への特別抗告も棄却され、死刑が確定しました。弁護団が期限内に控訴趣意書を提出していれば、二審において松本被告の訴訟能力の有無を争うなど被告を弁護する余地が存在したことを考えると、不提出によって被告人から残り二回の審理の機会を奪い、刑の確定を早めたことになります。弁護団は彼らの役割である“被告人の自由・権利の擁護”を怠ったわけで、その点からも評価に値しないです。ただ、そういう特殊事例を基準に自由や人権という価値自体を胡散臭いものと捉えてしまうのは残念です。マスコミ報道と対峙しながらも、自由や人権という価値を重んじる保守人権派とでもいうべき言論が、ネット上の保守論客の中から起こらないものかと思います。
Posted by sok at 2006年10月10日 21:09
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空気を読まないロクデナシへの讃歌??国旗国歌強制は違憲という判決に寄せて
Excerpt: 私個人は国旗や国歌に、とりたてて賛成も反対もないです。 中学まで剣道をやっていたのですが、剣道大会の開会や閉会では必ず君が代が流れていましたし、自分も歌っていました。 今回の判決も「当然のことだ..
Weblog: ひげたまの「日々むむむ」読書日記
Tracked: 2006-09-24 23:15

なんかほんとどうでもいい
Excerpt: そんなことばかり。そういうわけでまた2ヶ月近く放置プレイですよこのデムパblog。 ほんと、毎日更新されている方々には、頭が下がります。 ・北の国の件、安倍ちゃん総理就任の件 安倍ちゃん..
Weblog: きぐつのつぶやき(仮)
Tracked: 2006-10-13 13:10