2006年09月10日

自明の理と過失衡量を経ない相対化論

 紀子妃殿下の第三子御出産について言及した乙武洋匡氏のblogが炎上した。毎日新聞の記事でも取り上げられた。どれほど酷いことを書いているのかと思って読んで見たら、炎上するような酷い内容ではなかった。

(2006年09月07日)乙武洋匡公式サイト:紀子さま出産
(2006年09月07日)乙武洋匡公式サイト:深くお詫びします
(2006年09月08日)毎日:乙武洋匡さん:ブログ“炎上”紀子さまご出産への言及で

 炎上時のコメントというものは、初期・前期・中期・後期・末期と少しずつ参加者の質が異なることが多いように思われる。したがって、炎上しているからといって、コメンターを一括りに論じることは難しい。しかし、幾つかのパターンは存在する。そこに着目して、コメンターの中から炎上時に象徴的なコメントを幾つか例に挙げ、考察を加えている切込隊長のエントリーが興味深かった。切込隊長は今回の炎上を、冗談めかして読み物として面白可笑しく書いてはいるが、個々のコメントの問題点は的確に指摘している。一読の価値あり。

(2006年09月09日)切込隊長BLOG:乙武洋匡氏のブログの小炎上で寄せられたコメントを深く吟味する

 個々のコメンターとコメントの問題については、上記のように既に切込隊長が指摘していることなので、それ以外のことについて書く。この炎上を論評する人達への違和感について。


【目次】
1.自明な事柄は書くべきか
2.私の場合その1 書かない
3.私の場合その2 書く
4.過失衡量を経ない相対化論
5.書き手と読み手(蛇足かもしれないが補足)
6.追記(09月30日18:20頃)


1.自明な事柄は書くべきか

 余りにも自明なことは書く必要があるのか。出産が慶事であるという認識は、現代の日本において多くの人に共有されている価値観だと考える。余程、皇室を嫌悪している人で無い限り、皇室への尊崇の念の軽重という点に立ち入ることなく、皇室であるか否かにかかわらず、どこの家の出来事であろうとも、新しい生命の誕生は喜ばしいことである。この点は、社民党の福島瑞穂党首も共産党の志位和夫党首もそう述べているのであるから、現代社会において与野党で意見の分かれるものではないと考えていいだろう。ただ、両議員は立場上、質問されたから応えたのであって、質問されなければ黙っていたかもしれない。自明なことは態々言うまでもない。

 一般に自明と考えられる事柄に関しては、それが自明とされる、多くの人が受容する常識自体に問題を投げ掛けるような場合や、通説とは大きく異なる言論を展開する際に、それが反社会的な結論として読者に取り違えられないための予防線として言及されるような場合などでない限りは、書き手と読み手の了解事項と割り切って書かなかったとしても何の問題もない。特に書く必要を感じない。必要、必ず要するかといえば、必ずは要しないと思う。むしろ、一々親切に書いて貰わなければ分からないのか、それほどまでに現代において「新しい生命の誕生は喜ばしいことである」という価値観が揺らいでいるのだろうか。

 必要性の無いことを書くことには、文章全体が冗長になったり、色んな考えの人に配慮した結果、文章に勢いが無くなったり、面白味が無くなったり、伝えたい主題がぼやけたりといったデメリットがある。それらのデメリットと、炎上に対する危機管理意識や自己の文才を天秤にかけて、書く意義を見出せるならば書けばいい。


2.私の場合その1 書かない

 では、お前ならどうするかと聞かれれば、私なら書かない。私は自分のことを保守的な人間であると思っているが、保守的傾向の人々の間で自明と思われていることであっても、これまで言及していないことも多々ある。例えば、当blogには日の丸画像は貼っていないし、君が代が流れるようにポッドキャスティングを用意してもいない。紀子妃殿下の第三子御出産に関して、おめでとう記事の一つも書いていない。何故か。今のところ書く必要性、載せる必要性を感じないから。

 勿論、書いていないからといって、何も思っていないわけではない。日の丸のデザインはシンプルで美しく、描き易く、覚え易く、親しみ易いと思う。君が代は厳かな雰囲気が良い。アメリカやフランスの国歌のような勇ましい歌詞でないために、保守系言論人の間からも「スポーツの前に流れると戦意高揚にならない」という理由で第二国歌制定に言及する者もいるが、私はそうは思わない。君が代は勝負の前ではなく、後に聞いた時により美しく感じる。アメリカやフランスの国歌は試合前には勇ましいが、試合後もなお勇ましいと、さすがに聴いていて疲れる。戦意高揚だけが国歌の価値だとは思わない。

 紀子妃殿下の御出産については、特にblogで取り上げることもなく、その日の朝刊一面を見て喜ばしいことだと思ったし、誰に伝えるでもなく自分の中で「おめでとうございます」と思えた。ニュースは幾つか梯子して見た。誰かに話したかと言えば、家族や親しい友人との話題の中で少し出たくらい。新しい生命の誕生について祝福することは自明のこととして、その上で、皇室にとっての41年ぶりの男児であることが、とりわけ、保守系ブロガーにとっては一大イベントなのだろう。けれど、私にはblog上で態々、意見表明する必要を感じなかった。私にとっては内心で祝いたい慶事であった。これは他者のblog運営の在り方を批判するものではない。


3.私の場合その2 書く

 それでも書く必要に迫られた場合はどうするかと聞かれれば、私ならあまりにも自明な事柄であっても、敢えて書くという選択肢を選ぶと思う。何故か。揚げ足を取られたくないから。自明なことを態々書くことによって主題が不鮮明になる可能性と、揚げ足を取られて本文中の主たる内容が読まれない可能性、二つのデメリットを比較したとき、前者は自分の努力で軽減できても後者は全く相手に依存してしまうので、必要性を感じなくても敢えて書くであろう。最初に前置きとして自明な事柄に触れるだけで、炎上リスクが減るのであれば、いや、炎上に至らなくても論旨を理解しないコメントへの応対を迫られる時間と労力のコストを考えれば、そちらを採用する。

 ただ、そうして自身が必要性を感じないことについて、様々な人間を想定して配慮に配慮を重ねた文章は、自分で読み返して観たとき、勢いも無ければ面白味も無い。そこにあるのは、慎重さと読む人に冷静で公正な印象を与えるかもしれないというだけである。そうして、書き手自身が、書いた文章に面白味を感じられなくなるという状況が続けば、書くことへの欲求は減退していく。

 当意即妙、以心伝心は理想であって、書き手の側は、そうして赤の他人に多くを期待するよりも自分の文章を工夫する方が建設的ではあるが、一方では、読み手の側でも一から十まで書いて貰わないと全て理解できないとか、親切丁寧な書き方でないと自分とは違う価値観の人間の主張には耳を傾けないとか、そういう状況は知的好奇心の衰退ではないか。

 登場人物の内面の葛藤まで親切に説明口調で教えてくれる映画でなければ楽しめないとか、テロップで強調して貰わないと漫才番組が楽しめないとか、「それってどうよ」と時々思うことがある。ネット上の言論が衆愚に向かうか、既存メディアのチェック機能を果たすかについても、参加者の知的好奇心の持続にかかっていると思う。もし、ある文章に二通り以上の読み方が考えられる場合、脊髄反射的にコメントする前に、考えられる可能性を一つずつ試してみて、論旨や日頃の主張と照らし合わせて妥当と思える方で読み解くべきである。常にそういう試みが成功しなかったとしても、それを試みる努力だけは惜しむべきではない。


4.過失衡量を経ない相対化論

 しかし、私が最も違和感を持ったのは、明らかにそういう手続を経ずに脊髄反射的なコメントを殺到させている人達に対してというよりも、一方にそういった人達がいるにもかかわらず、書き手側の少しの過失に着目して軽々しく「どっちもどっち」と言う人、つまり、簡単に物事を相対化できる人に対してである。そういう人を見ると、「ああ、この人はこの事柄にあまり関心がないのか」と思う。そういう人がまるで訳知り顔で、自分は中立・公正であるかのように何かを論評している様は、単に脊髄反射的なコメントに加担していないだけで、そのblogでの主張の要旨すら掴めていない点では変わりない。

 双方の過失を相殺して「どっちもどっち」と言うのであれば、過失が均衡していることを説明すべきである。乙武氏の過失とコメンターの過失が均衡しているのか。均衡していないのであれば、より非のある方をこそ責めるべきである。双方に非があり、それらが相殺に適さない種類の過失である場合には、個別具体的に双方の過失を指摘すべきである。過失の衡量を怠って、訳知り顔で中立・公正を装った発言をするコメンターには、一度、blogでも立ち上げて頂いて、継続的に一定量の文章を書いてもらうのが良いと思う。その時、はじめて継続的に一定量の文章を書くことの時間と労力のコストについて知るだろうし、それに較べて心無いコメンターによるコメントが如何に低コスト・低リスクで為されているかについて気付くだろう。

 論旨も理解せずに寄せるコメント、或いは、そういったコメントの問題点について具体的に踏み込んで検討する労力を惜しんで行われる「どっちもどっち」論、どちらも非生産的であり、思いやりに欠ける。とても誉められたものではない。想像力が及ばないならば、自身の経験から学ぶほかない。学ぶ気がなく、かつ、想像力も及ばないのであれば、炎上させるコメンター達と同様、コメントを書かなければいい。自制心を働かせなさい。

 けれど、これは無理な注文かもしれない。自分の想像力が及ばないことを想像・認識できること(メタ認知)が前提であり、メタ認知の出来ない人間に想像力を期待することは不可能ではないか。たまたま何かのきっかけでblogでも始めて、心無いコメントに対応せざるを得ない状況に陥って、その時、運が良ければ気付くかもしれない。気付けばいいね。

 かくして、過失衡量を経ない「どっちもどっち」論者は、炎上させるコメンター達よりも自分が一段優れた人間であることを周囲に示そうとする。尤も、そのような振舞いをする者は、見る人が見れば炎上させるコメンター達と同じ穴の狢ということで、ほぼ自明として認識される。そして、自明なことは殊更言う必要はないということで、かかる狢の優越感は放置される。


5.書き手と読み手(蛇足かもしれないが補足)

 気が向いた時に更新している私としては、毎日、一定量の文章量で日記を更新している人達の継続性は、もっと評価されるべきだと思う。こう書くと随分と評価基準が低く、書き手に甘いと思われるかもしれないが、自分の思ったことを書いて伝えることの難しさ、それを継続していくことの大変さは、意外とコメンターやROMに留まっている内は気付きにくいものではないか。自分の経験から言えば、blogを始めたことでコメンターやROMであった時以上に、具体的に認識するようになった。実感を伴って。

 日々、無償で、当たり前のように巡回して、その知見を分けて頂いているブロガーや日記・掲示板の管理人さん達は、私が読む時間より遙かに多くの時間を割いて情報に触れ、知識を得、構成を考え、文章にし、推敲・校正していることだろう。或いは、推敲を重ねて無駄を削ぎ落として、端的に伝えているために、一見すると更新にかかった時間と労力が少ないような印象を受けることもあるかもしれない。しかし、いずれの場合においても、それを私は短時間で消費して、自らの思考の足場にし、材料にし、糧にしている。

 そういう継続性への評価を前提にして、内容面における論拠、論理展開が秀逸であれば、それこそ優れたブロガーという評価になるのだろう。逆に、真贋不明な事柄を、さも事実であるかのように伝えたり、好んで差別表現や誹謗中傷を繰り返したりする書き手は、仮に毎日更新していたとしても、その日々の更新で築いた信用を、その場で切り崩しているといえる。

 継続性への評価・再認識は、それはブロガーへの批判を封殺するものではない。より優れた同業者でなければ批判を許さないという態度は、おそらくどの業界においても妥当ではないだろう。論旨を理解した上でのコメントや過失衡量を経た上での「どっちもどっち」という結論ならば、特に問題なく、建設的な意見の交換が可能だろう。過去、拙blogに頂いたコメントは、殆どが論旨を汲み取って頂いた上でのコメントである。ありがたいことです。


6.追記(09月30日18:20頃)

 今さらという感もあるが、追記しようと思いつつ、そのまま放置していたことを幾つか書く。

 少し前のエントリーになるが、切込隊長が最近の炎上事例について纏めていた。ポイントを押さえながらも、表現は機知に富んでいて不快感はない。この辺りのバランス感覚はいつもながら凄いと思う。関心はあるけど、距離を取っている。距離を取っているけど、書くべきことは書く。何か書く以上は、面白く書く。ヲチという姿勢に賛否はあるだろうけれど、その観察眼は参考になる。きっこ女史に関しては、どうでもいいが。

(2006年09月20日)切込隊長BLOG:きっこ女史のMixiコミュニティが炎上している件について


 乙武洋匡氏のblogは未だに炎上している。現時点で「紀子さま出産」のコメント数1759、トラックバック数105。「深くお詫びします」のコメント数4731、トラックバック数211。この炎上に関して、保守系blog『コリアン・ザ・サード』の新井知真氏(帰化された在日三世の方)が炎上させた側を批判している。昨年の人権擁護法案論争で反対派に属したブロガーやコメンターで、新井氏のように差別的表現に適切に反論している者は他に何人いるのだろうか。同法案に反対するのであれば、日頃から言論で対抗しておいた方が説得力は増すのではないか。

(2006年09月20日)コリアン・ザ・サード:乙武炎上に思う
posted by sok at 22:30| Comment(4) | TrackBack(1) | ネットと言論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 自己レス。何故、本日記で過失衡量を経ない相対化をする人達を取上げたかといえば、こういう人達の態度が、まさに横田めぐみさんの「遺骨」鑑定論争が一年後に再燃した際の、一部の人達の反応と共通するから。あの時は主に革新的な考え方の人達が反応していたが、こういう中立・公正ぶった態度は何も革新派だけに限ったことではない。あらゆる情報と時事問題が消費されているように思う。

 以前、ガッツ石松氏とやくみつる氏に関して書いた際にも少し触れたが、話題性という価値がその他の価値よりも重要視されるようになったからかもしれない。話題性のある事柄について何事かを書き、話し、盛り上がり、消費して、終わり。次の話題性ある事柄へ、日々、移る。そういう刹那的なコミュニケーションツールとして、あらゆる情報と時事問題が等価的に消費されているからこそ、その場限りの中立・公正ぶった態度で何事かを伝えた気になるのではないか。深く立ち入らずに。
Posted by sok at 2006年09月11日 22:47
sokさん、はじめまして。
興味深く記事を拝見しました。

普段当たり前だと思っていて、あまり言葉にされていないコトが書いてありますね。

特に、
> ただ、そうして自身が必要性を感じないことについて、様々な人間を想定して配慮に配慮を重ねた文章は、自分で読み返して観たとき、勢いも無ければ面白味も無い。

これ、まったくその通りですね。
萎縮している文章は、書くほうも面白くないし、読むほうも面白くないと思います。

ちょっと前に、<a href="http://blog.so-net.ne.jp/higetama/2006-09-03-2">【本田由紀のblog閉鎖、一体お前ら何がしたいんだ! 】</a>という記事を書いて、少々反響があったんですが、炎上とまでいかなくとも、そんなちょっとした反響だけで、記事が防御的になったりしました。
日々精進といったところです。
Posted by ひげたま at 2006年09月20日 21:17
おっと、タグ使えないんですね。

【本田由紀のblog閉鎖、一体お前ら何がしたいんだ! 】のURLは、こちらになります。
http://blog.so-net.ne.jp/higetama/2006-09-03-2
Posted by ひげたま at 2006年09月20日 21:20
 ひげたまさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

 書き手と読み手の配慮が拮抗して良い関係が築けているなら、議論や討論、意見の違いも得るものが多いと思いますが、最近の炎上事例は「いじめ」や「吊るし上げ」という感が強いです。書き手をただ萎縮させるだけの暴力的なコメントによる炎上現象は、その後どういう展開を求めているのかが不明です。再考を促すというには当初から罵倒や差別的表現が多く、コメント欄閉鎖やblog閉鎖に追い込むこと自体を楽しんでいるのではないか、或いは誹謗中傷自体が主目的ではないか、と。対話する姿勢が見えてこないところに非常に危ういものを感じます。

 本田由紀氏のblog閉鎖については、本来、知的で対話可能であるはずの方々によって生じた点、参加していた何人かの学者についてはその著作から学ばせて頂いていた点で、残念でした。
Posted by sok at 2006年09月22日 21:31
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blogの炎上、その周辺
Excerpt: 乙武洋匡のblogが炎上したことに関連してこんな記事を発見。 【sokの日記】さんトコの、【自明の理と過失衡量を経ない相対化論】 。 ごらんの通りタイトルも難しく硬派な記事ですが、「あれは炎..
Weblog: ひげたまの「日々むむむ」読書日記
Tracked: 2006-09-20 21:05
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