2006年08月16日

ガッツ石松氏とやくみつる氏

※本日記は8月8日に下書きしていたものに加筆訂正したものです。今さらながらの話題ですが、他律的な思考の問題点について考えさせられる題材であると思ったのでUPすることにしました。


 亀田三兄弟には全く興味がなかった。何故、人気があるのか分からなかったし、高視聴率の理由も分からなかった。品の無さやビッグマウスがネット上で話題になっていたけれど、それにも興味がなかった。格闘技やスポーツといえども興行である以上、パフォーマンスとしての無礼・非礼は充分有り得ることで、それについて一々腹を立てていては格闘技番組なんて観ていられない。個々人の好き嫌いは当然としても、一方では、興行だからそういうものだという諦観も処世術として必要だろう。

 勿論、先日の「HERO’S 2006」における意識朦朧とした桜庭選手を闘わせ続けたことは論外で、瞬間的視聴率に囚われて、長期的な格闘技ブームの育成を考えていないように見受けられた。選手を使い捨てにするかの如き態度は諦観で済ませるべきではない。他方、亀田親子に対しては、ある時点までは、その品の無さや無礼への批判が主力であったと思う。それに留まる限りは、パフォーマンスとして処理する知恵も必要だろう。

 また、亀田親子の態度は教育上宜しくないと思う人達もいる。テレビの影響は少なくない。しかし、教育上好ましくない番組、あるいは芸能人やスポーツ選手は、これまでも多数存在していた。度を越した番組に対してはBPO(放送倫理・番組向上機構)に伝えるなどの選択肢もあるが、個々人の趣味や受け止め方の問題でもあり、線引きは難しい。例えば、大喰い番組を「食への冒涜」と受け取る人もいれば、極限の戦いと捉える人もいるだろう。基本的には家庭での教育で対処するのが妥当だと考える。

 その他、マッチメイクの不自然さや暴力団絡みの噂、ローブローの危険性など、個々に気になる問題点がない訳ではない。亀田親子を巡る問題では、この点だけが気になった。けれど、先日のタイトルマッチ以前の批判は、その主流が亀田親子の下品さについてであり、他方、擁護の主流は「実はリング外では親思いの素直で礼儀正しい子達」ということで、やはり興味が持てなかった。どちらのタイプも、日本国内にはいくらでも存在する。殊更、話題にする必要を感じない。そういう意味では、メディアが創り出す亀田ブームへの批判、礼儀云々以外の個々の問題点についての格闘技ファンの批判、という二点以外にはどうしても興味が持てなかった。


 だから、WBAライトフライ級王座決定戦(亀田興毅vsフアン・ランダエタ戦)も観なかった。誤審騒動が起こっていると知って、YouTubeにて試合の動画と幾つかの関連報道を確認するまでは。疑惑の判定となれば、それは上品下品、快不快、好悪の問題ではない。ここに至ってメディアは初めて亀田親子問題の客観的な問題点に触れるかと思った。しかし、相変わらず、礼儀についての視聴者とメディア側の主観の違いに持ち込もうとしているようにも思えた。

 とはいえ、YouTubeにて関連する動画を見て実際に興味を持ったのは、疑惑の判定よりも、この騒動の参加者に対してであった。以下、今月7日の朝にテレビ朝日で放送された「モーニング」という番組での亀田興毅選手の父・史郎氏とガッツ石松氏、やくみつる氏の公開討論について感想を書く。

(2006年08月07日)テレビ朝日「スーパーモーニング」
http://www.youtube.com/watch?v=ly2-qjCWLZ0
http://www.youtube.com/watch?v=FabvOOZn7Fg
http://www.youtube.com/watch?v=6C_Z4I2YnqI
(※現在は全てリンク切れ。)

(2006-08-08)ZAKZAK:ガッツ石松の評価UP…亀田父と討論、ネット大騒動


 この番組の登場人物について。ガッツ石松氏は元WBC世界ライト級チャンピオンであり、やくみつる氏は漫画家で同番組木曜日のコメンテーター。二人は、試合終了後に亀田興起選手への批判コメントをスポーツ紙に寄せていて、これを受けての公開討論だった。司会者である若手(?)アナウンサーの隣にはジャーナリストの鳥越俊太郎氏、後ろには弁護士の田中喜代重氏と作家の吉永みち子氏がいて、亀田史郎氏を擁護していた。

 あらかじめ書いておくと、この番組には大人と呼べる人間が一人しか存在しない。そのことが印象的だった。 亀田親子の態度の悪さは噂に聞いていたので、関西で言うところの「輩(やから)」という印象しかなく、全編通して見ても好印象を抱く要素がなかった。唯一、挙げるとすれば、我が子を世間の批判から守る姿勢くらいか。しかし、それさえも疑惑の判定への批判を避けるための論点ずらしに見えて、やはり共感できなかった。

 亀田史郎氏についてはネット上の評価としてある程度知っていたので今さら驚くべきこともなく、むしろ気になったのは批判者であるやくみつる氏の態度であった。「あの」亀田親子の態度の悪さは指摘するにあたって、自らも無礼・非礼を行って、その問題点を指摘しようという試み。それが番組冒頭、亀田史郎氏の躾を批判するために仕付け糸を投げて渡すシーン。

 これはもう、どう見ても子供の喧嘩である。しかも、これはリング上の興行ではない。討論技術としての挑発を否定する気はないが、批判者が批判対象と同様の悪態を示しては、好意的に見ても「どっちもどっち」であり、興行の一環でもない無礼・非礼には、それを正当付ける理由は無い。本来、争点になるべき「疑惑の判定」が、やく氏の“パフォーマンス”によって有耶無耶になり、亀田氏のペースに持っていかれたことからは、色々と学ぶべきものがあるように思えた。つまり、批判にあたっては批判対象に引き摺られてはならないということ。他律的な思考の問題は、この点にあると思う。以下、出演者ごとに感じたことを書く。


亀田史郎氏
 噂に違わぬ不遜な態度は、好感を持つ要素なし。但し、他人に迷惑をかけていないから構わないという趣旨の発言や見たくなければ見なければいいという趣旨の発言に見て取れるように、その論理には穴がある。けれど、穴を指摘する者もスタジオにはいなかったので、基本的な主張部分は本番組内では一貫していたことになる。そして、やく氏の行為の方が不味かったために、逆に、リング上で闘う我が子をリング外の批判から守る部分を際立たせる結果になっている。亀田親子にはアンチが多いから、この映像を観ても、その不遜な態度を嫌う人は多いだろうが、討論としてはやく氏の負け。

 「見たくなければ見なければいい」という趣旨の発言について。公共の電波で取り上げられ、持ち上げられなければ、今ほどファンも付かなかっただろう。そういう恩恵を得ながら、批判に対しては「見なければいい」と言ってのける。見たい奴だけが見て、見たくない奴は見なければいいを徹底するならば、自身のHPで動画配信すればよい。しかし、それでは今ほどファンは付かなかっただろう。公共の電波で取り上げられることで利益を享受していながら、それによる不利益は甘受できないという亀田氏の自覚の無さは、もっと批判されてよいはずだが、番組中では誰も批判していなかった。

やくみつる氏
 批判するにあたって、批判対象のレベルまで堕することが如何に愚かなことかを体現している。そのため、本番組中では冒頭以降、「お前には教育論を語る資格なし」という風に一蹴されてしまっている。格闘技は興行で説明できたとしても、公開討論を興行として説明するのは難しい。批判対象が行っていた状況と自身が行った状況で、何が同じで何が違うのか。その「何が違うのか」という部分が理解できなかったのが敗因だろう。

 そして、疑惑の判定問題を一般的な躾や道徳問題に拡散してしまったことで、亀田氏の努力論という一般論に逃げられることになった。やく氏が争点にした「躾・道徳論」は、個々の家庭により差があるし、育児拒否や家庭内暴力などの問題がない限り、基本的には各家庭内の問題である。また、亀田親子を支持する層も一定数いる以上は、躾がなっているか否かは個々人の価値観の問題でもある。むしろ、興行という要素のない場面で公然と他人を挑発した方が悪質である。やく氏は「仕付け糸」を投げつけたことで自説の正当性を失った。

 他方、亀田氏が反論に使った「努力論」であるが、基本的な美徳の一つである努力を、一般論として否定することは中々難しい。その上、努力を認めつつもプロなら努力だけでは済まないと論じても、それ自体は直接には疑惑の判定問題には結び付かない。この論点ではいくら頑張ってみても議論は平行線で、相手を追い詰められない。やく氏が、文句を言うことや挑発すること自体を目的にしていたならば、その目的は達成されたことになるが、その代償はあまりにも大きい。あれでは、やく氏に好意的に解釈したとしても視聴者は「どっちもどっち」という感想に落ち着く。同様の効果を得るにあたって、他に取り得る方法はあっただろう。

ガッツ石松氏
 尊厳ある大人。努力を強調して批判を切り抜けようとしている亀田氏に対して、その日頃の努力を認めつつも、争点が疑惑の判定であることを示し、その点でブレていない。また、後述する三氏と違って、やく氏の暴挙(表現手法)をたしなめている。たしなめる一方で、やく氏が抱いた怒り(表現内容)も汲み取って亀田氏に伝えている。聖人かと思った。

 また、疑惑といえども審判の判定である以上はベルトを返上する必要はなく、その代わりランダエタ選手と再戦することで疑惑を払拭すべきであるとして、亀田氏に一つの現実解を提供している。他者を批判することは容易いが、代替案や現実解を提供できる人物は意外と少ない。ガッツ氏からはボクシングとボクサーに対する愛情を感じる。

鳥越俊太郎氏
 やく氏が仕付け糸を投げた際、笑っていた。その笑いは、仕付け糸が諧謔として面白かったからか苦笑なのか解らないが、司会者やそれを補佐する役割の人物であれば、討論に不必要な挑発に対しては注意を行うべきであった。また、終始、亀田氏寄りの姿勢である。やく氏にも亀田氏にも切り込んでこその司会だと思うが、そのどちらの役割も果たせず、ただ、間近で亀田氏に怒鳴られているやく氏を見て怖気づいているように感じた。

田中喜代重氏と吉永みち子氏
 鳥越氏と同様、亀田氏の言動のきつさやガン飛ばしに怖気づいたのか、当たり障りのないことで亀田氏の機嫌を取ろうとしていた。あの疑惑の判定さえ肯定している。亀田親子の悪態についても肯定している。亀田氏のいう「他人に迷惑をかけていないから構わない」という趣旨の発言は、明示的な法令違反がなければ何をやっても許されるという発想だが、法は社会規範の最低限に過ぎない。この発言に対しては、知識人であれば苦言の一つもあってよさそうなものだが、それさえもない。今後、同種の発言をする人達に対して、両氏(および鳥越氏)はどういうコメントを寄せるのか。一様に許容するのであれば主張に一貫性は保てるが、法に拠らなければ秩序が保てないことを知識人自らが示すことになるし、許容しないのであれば亀田氏の威圧に負けてしまったことになる。


 そして、鳥越・田中・吉永の三氏は、疑惑の判定という主題には結局一切絡めなかった。せいぜい、その表面をなぞった程度であった。亀田親子を巡る騒動は、今後もマスメディア上では無礼・非礼の問題としてのみ語られることだろう。その間も疑惑の判定は繰り返されるかもしれないが、今回向き合えなかったことを考えると、明示的な法令違反がない限りは今後もメディアが向き合うことはないだろう。

 ネット上ではゲド戦記や日本沈没や亀田親子について、コンテンツの面白さよりも話題性によって興行として成功しているという意見がある。

(2006年08月07日)切込隊長BLOG:『ゲド戦記』が不評のようなのに商売人根性が炸裂し興行成績は優秀な件についての考察

 面白いか面白くないかではなく、学校や職場、或いはネット上での話題として、コミュニケーションの道具として消費されていくという見方であり、一理あると思う。しかし、そうであるならば、最早、亀田三兄弟の試合はYouTubeにおいてさえも、私は見ないだろう。そういう在り方には乗りたくないから。
posted by sok at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットと言論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/22445475

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。