ネットを眺めてみると、主に政治的価値観が革新派の人の中に、死刑反対の感情が行き過ぎて被害者遺族である本村さんに対して、陰謀論をもって誹謗中傷する人達がいた。特に強烈だったのは、喜八ログのコメント欄におけるkaetzchen氏の主張。以下、その主張を纏めてみる。
(2006年03月20日)喜八ログ:安田弁護士を応援します
(A)本村さん精神異常者説
(B)陪審員制度推進論者の陰謀説
(C)山口県光市企業城下町の特殊性説
(光市はA級戦犯の孫である安倍官房長官の弟・岸信夫氏の選挙地盤だから)
このような陰謀論で被害者遺族の感情を逆撫でする人は論外として、今回、気になったのは、本村洋氏を支持する立場の人達が、遺族以上に感情的になっていたこと。例えば、上記の喜八ログの記事においては、喜八氏は題名とは裏腹に被害者遺族である本村洋氏を気遣っている。また、遺族を貶めるkaetzchen氏を窘めている。喜八氏の主張は、あくまで安田弁護士の弁護人としての立場の擁護に留まっている。にもかかわらず炎上した。何故だろうか。
ネット上には他にも、死刑積極論や厳罰化を説くに留まらず、残虐刑をあれこれと考えて悦に入っている人もいた。主に政治的価値観が保守派の人達。私がよく見ている掲示板でも、普段は理性的な人達が「凌遅刑」「車裂き」「銃殺」「打ち首獄門」「火炙り」「鋸引き」などの残虐刑の施行や「臓器移植」「新薬臨床試験」への利用、或いは、米国のように「加算刑」「併科主義」の導入を説いていた。この種のことは、凶悪犯罪に関する報道がなされるたびに起こる。死刑積極論者の中には、愛国者や憂国者を自認する人達も多い。にもかかわらず、自己の所属する国家が凶悪犯の残虐性を模倣することに、何の躊躇いも持っていないのが不思議だった。
また、安田弁護士批判が高じて、凶悪犯罪者の弁護人を務めること自体を批判する言説も散見された。金目当てだとか売名だとか、少し考えれば刑事弁護がさほど儲からないことくらい分かるはずだが。酷いものになると「被告人とともに安田弁護士も死刑にしろ」という意見もあった。確かに、訴訟の遅延戦術は遺族側に迷惑であり、せめて事前に一言あるべきだと思うし、記者会見での気味悪い絵を使った説明、とりわけ殺意の否認にあたって「子供の首に蝶々結びしただけ」という趣旨の理解に苦しむ弁護など、反感を買っても仕方ない内容ではあった。しかし、だからといって弁護人の存在自体を批判するとなると、これは刑事訴訟制度自体への無関心ということにもなる。
凶悪犯罪に関するネット上の保守言論を眺めていると、拉致被害者家族の身を考えない北朝鮮人権法案反対派の言論と重なって見える。被害者救済の手法は多方面に存在するのに、厳罰化や強硬論の方向でしか考慮されない。他の救済方法について話題を振る人がいないのでは、日々の生活で溜まった憂さを晴らしていると思われても仕方ない。刑事政策は個々人のカタルシスを得る場ではない。
何故、ネット上では厳罰化や強硬論が盛んになるのか。幾つか思いつく理由を挙げると…(1)人権派・革新派への不信、「人権」や「弱者」という言葉への不信(2)メディアが体感治安の悪化を煽る報道をしている(3)反論の余地のない正義の側に立ちたがる(4)ネット上における情報の即時性・保存性、blogのコメント欄・トラックバック機能により、親和的な意見が集約され大多数と錯覚するサイバーカスケード。以下、(1)と(2)について、思うところを書いてみる。
先ず、最近の保守言論を見ていて些か気になるのは、人権やその他の価値観に対して他律的に思考している点。「犯罪者には人権がない」なんて極論を軽々しく言う人は、革新派が説く「人権」や「弱者」への不信が高じて、人権という概念自体を軽んじているのではないか。人権について革新派への反発という他律的な態度でしか考えたことがないのではないか。
犯罪者にも人権があるのは当然として、それがどの程度制限されるのかは、被疑者・被告人・服役囚・死刑囚などの身分に応じて議論すべき事柄である。また、その際には、国家権力と被疑者・被告人・囚人の関係(タテの関係)と加害者・被害者の関係(ヨコの関係)は、分けて論じるべきだろう。この点を混同すると、被害者救済が加害者への厳罰化や死刑積極論でしか為されないという事態になる。
凶悪犯罪が起こる度にネット上で厳罰化論や死刑積極論が生じるのは何故か。刑法も少年法も改正されて、一定程度、厳罰化されたにもかかわらず、凶悪犯罪が起こる度になお厳罰化論が出てくる。それらは正義感や理不尽さへの怒りの表れなのだろうが、厳罰化が為されてもなお起こる厳罰化論を見ていると、これは究極的には死刑しか認めないということではないか。
ここで気になるのは、ネット上での死刑積極派と反中派はしばしば重なること。死刑が積極的に行われる国家として真っ先に思い浮かぶのは中国だが、一方で中国の人権軽視を批判しながら、他方では中国に見習えといわんばかりに死刑積極論を展開したり、残虐刑を語り合ったりする捩れの原因は何か。
個々の問題に対する各人の正義や道徳感の反映というのは勿論あるだろうが、被害者救済が死刑や厳罰化の方向でしか語られないことに注目するならば、「(革新派が米国との対比で配慮する)中国への不信」と「(革新派が国家権力との対比で重視する)被疑者・被告人・囚人の人権への不信」ではないか。革新派への反発から出発して、人権やその他の価値観について他律的にしか捉えていない、と見れば捩れの説明が容易い。
また、死刑積極論者で冤罪の可能性をあまり省みない人達が、痴漢やセクハラなど性犯罪においては冤罪論や加害者側の擁護(「被害者にも落ち度がある」など)をする様を、ネット上でしばしば目撃する。ここにも「(革新派が反権力との対比で重視する)冤罪への不信」や「(革新派が男社会との対比で主張する)女性学・女性論への不信」という他律性の捩れがあるのではないか、という気がしないでもない(と語尾が少しトーンダウンするのは、死刑積極論者との重なりが反中派よりは少ないように思うから)。
確かに、痴漢事件における訴える側の勘違い、セクハラ事件におけるセクハラの定義の曖昧さなど、犯罪を構成する要件が訴える側の主観に依拠している部分はある。その点で、他の事件より冤罪を意識するのかもしれないが、性犯罪被害者の多くは女性であり、羞恥心や周囲への配慮などの理由、或いは証拠の少なさから中々表に出て来ない部分もある。女性側の主観に拠っているというだけでは、これらの事件でのみ冤罪を論じるハードルを下げる理由にはならない。
冤罪は如何なる事件でも起こり得る。多くは、警察の初動捜査の不備や自白偏重の取調べによる。もしかしたら、事件の種類によって冤罪の多さに違いがあるのかもしれないが、場当たり的で整合性のない冤罪論では、冤罪の重大性は捉えられない。個々の事件で冤罪の可能性がない場合であっても、それ自体が冤罪を軽視する理由にはならない。
次に、厳罰化論とともに語られる「凶悪犯罪の増加」について。これについては、統計的に凶悪犯罪や少年による凶悪犯罪の増加は見られない。にもかかわらず、メディアでは「凶悪犯罪の増加」が報じられ、それがネット上での厳罰化論にも拍車をかけている。メディアの作る体感治安の悪化が、現実の統計結果を離れて刑事政策や社会の在り方に反映され、被害者の声という本来は「ヨコの関係」で語られるべき事柄を、国家と被疑者・被告人・囚人の人権についての「タテの関係」に持ち込んでいるのが、現在のネット上の厳罰化論だと思う。
女子リベ 安原宏美--編集者のブログ:世界一少年に厳しいデータ(詳細)
芹沢一也blog 社会と権力:日本の治安悪化神話はいかにつくられたか(浜井浩一)
そのような厳罰化も確かに被害者遺族の望みではある。殺人者が数年から十数年後には出て来られるのでは、殺された者は死に損で不合理だと感じるだろう。数年前までは被害者救済立法が遅れていて、犯罪被害者とその家族・遺族が取り残されていたこととも関係があるだろう。しかし、現在のネット上の厳罰化論は、被害者側に立つような主張でありながら、厳罰化以外の被害者救済には関心が薄く、結果、その種の被害者救済立法は被害者遺族の活動に拠る所が大きい。死刑判決が下り、刑が執行された後、被害者遺族の生活を思う人間が厳罰化論者の中に何人いるのだろうか。
厳罰化を主張することは、それは他の被害者救済を論じることと矛盾しない。誰からも批判されにくい正義の側・被害者の側に立って社会的制裁などの私的制裁に加担したり、日常生活で溜まった憂さを晴らしてカタルシスを得たりするために厳罰化を論じるのではなく、他の被害者救済方法とともに刑事政策としての死刑や厳罰化を論じて欲しい。その際には、「凶悪犯罪の増加」は事実か、という体感治安の悪化の問題にも突き当たる。
最後に、刑事政策を論じる時に残虐刑などで盛り上がることについて。
社会からの排除という意味では死刑か終身刑のいずれかがあれば足りる。死刑を採用しながら終身刑も採用するとなると、これは極刑の併用になる。米国に併用している州があるからといって、何もこれを真似る必要はない。死刑廃止論者の側から終身刑導入の声が余り伝わってこないために、死刑廃止に懐疑的になられる方もいるだろうが、同様に厳罰化論者の側からも、例えば「死刑廃止の代わりに懲役刑の上限を人間の寿命の範囲内で引き上げる」というような厳罰化が論じられているのを見たことがない。
併科主義については、日本でも罰金刑との関係においては採用されている。懲役刑同士の併科主義を採用すれば、人の寿命を越える刑が生じることにもなり、犯罪者に無用な箔をつけることになる。併科主義・加算刑を主張される方は、非現実的刑罰および国家が犯罪者の英雄化に結果的に加担することをどう考えるのだろうか。
残虐刑は人権の面からも、執行者の精神的負担の面からも問題が多く、社会からの排除という意味では薬殺による安楽死でも足りる。実際、ギロチンや電気椅子、薬殺の考案は、執行者を精神的負担から解放するという要請もあった。今さら、残虐刑を論じる人達は、これまでの人類の営みと逆行していることは認識すべきだろう。
囚人の臓器売買については、それを肯定するのであれば、レシピエントとの適合が確認されれば死刑が執行されるという本末転倒な状況に陥ることも当然覚悟せねばならず、現在、この状況が疑われている中国を批判することもできず、また、同種の批判を甘受する覚悟も必要になる。冤罪事件においては、さぞ悲惨なことになるだろう。
現在、問題になっているのは、死刑と無期懲役の間に開きがあることであって、この点を架橋する議論をせずに厳罰化論や死刑積極論を説くのは、刑事政策の私物化でしかない。国家の刑事政策にも関わる人権論が、人権派・革新派への忌避から生じる他律的な人権論であってはならない。