前エントリーのソーシャルブックマークに、以下のコメントを頂いたので、一応、返事をしておきます。
はてなブックマーク - sokの日記 カルデロン一家追い出せデモが利用したもの
kikori2660 そう言えば昔、拉致被害者を引き合いに出して、中国残留孤児が国を訴えたのを擁護してたヤツがいたっけな。
これは、おそらく私へのあてつけのつもりで言っているのでしょうが、残念なことに、kikori2660という人物が、ろくに中国残留孤児兵庫訴訟の論点を把握していないということ(さらにいえば、まともに兵庫訴訟の判決要旨すら目を通さずに判決批判をしていたということ)を露呈する結果となっています。
先ず、基本的なことを確認しておきますが、中国残留孤児と帰国した北朝鮮拉致被害者、両者への政府対応の「落差」を指摘しているのは、神戸地裁判決です。私は、その地裁判決を読んでみて、当時、愛国者・憂国者を自称・自認する人達が喧伝していたような「売国」判決ではないという理解に至り、この地裁判決の内容を支持するエントリーを書きました。
この点で、何もないところから突然「拉致被害者を引き合いに出して」カルデロン一家問題と関連付けようとした追い出せデモ関係者と同列に論じられるのは、ただの印象操作なので止めて下さい。中国残留孤児と帰国した北朝鮮拉致被害者を巡る支援の「格差」は、兵庫訴訟における争点の一つでしたから、判決に同意する人であれ、しない人であれ、そういう争点があるということは前提として押さえている知識だと思っていましたが、kikori2660氏においては違ったようです。
当時も「きこり」という人物から、次のような批判を受けました。
そもそも、このsokという人の「戦中の被害は日本人全てが等しく蒙ったもので請求権はないが、孤児は戦後も取り残されるという被害を受け続けたのだから、その分の保障を受ける権利がある」という論理には首を傾げざるを得ません。(なかつか氏のHP掲示板コメントより)日本の不作為だけを責めるのはおかしいし、戦前と戦後の被害を一様に区分け出来るものなのか。
勿論、これは「きこり」という人物が脳内で編集した想像上の言い分であって、私の意見ではありません。私が言っていた趣旨は次のようなものでした。
(2006年12月03日)sokの日記:中国残留孤児訴訟
1.中国残留孤児問題は戦時被害であり、国家無答責の原則が適用される。
2.中国残留孤児だけを特別扱いする事は公平性に欠ける。
3.中国残留孤児問題は戦時の出来事であり、拉致問題は平時の出来事である。
第1の点について。本件の主たる争点は、日中国交正常化後における日本政府の中国残留孤児に対する(1)帰国制限措置の妥当性(2)早期帰国支援義務懈怠の有無(3)自立支援義務懈怠の有無、この三点です。日中国交正常化「後」の行政の制限措置や義務違反が問われているのであり、大日本帝国憲法の国家無答責の原則は適用されません。
中国残留孤児問題は、その引き上げ時期により前期集団引き揚げ(1946〜49年)、後期集団引き揚げ(1953〜58年)、個人単位での帰国(1958〜80年)、大規模帰国(1981年以降)に大別されます。このうち、本訴訟で問題になっているのは日中国交正常化(1972年9月29日)以降の帰国者です。しかも、現に請求が認められているのは、除斥期間の壁に阻まれていない原告のみです。中国残留孤児問題と一括りにした上で、戦時被害だと主張するのは単純化が過ぎます。
また、“中国残留孤児の帰国事業における行政の制限措置や義務違反の問題”と“中国残留孤児発生の歴史的経緯の問題”は異なります。この点を混同して批判されている時点で、本訴訟の論点を理解されていないと看做されても仕方ありません。
第2の点について。中国残留孤児だけが特別扱いされているという根拠がありません。戦争による被害は国民が等しく受忍しなければならないという点では、原告もまた受忍しています。戦時における各種の供出や逃避行による財産の散逸等に関しては、彼らもその損害を等しく受忍しています。
本訴訟において原告が求めているのは、「その上、さらに」という点です。日中国交正常化後、他の日本国民よりも不当に過酷な境遇にあったことに対する補償です。この点で、中国残留孤児だけが特別扱いされていて法的公平性に失するという主張は、原告の受けた損害を不当に過少評価するものです。公平性を説くのであれば、上乗せ部分の損害に関して精査されたのでしょうか。
第3の点について。本訴訟における中国残留孤児の訴えが戦時被害に関するものでないことは上述しました。この観点と対比させるならば、拉致問題についても発生時が平時か戦時かという観点ではなく、帰国後の自立支援策という観点からの比較になります。工作員による拉致についての不法行為責任は北朝鮮(または今後の事情によっては後継政府)に要求するとしても、日本側の事情により不当に帰国が遅れたり、帰国後の自立支援策に不備があったりすれば、その点は日本政府に責任が発生するのは当然のことです。
中国残留孤児問題に関して、その発生原因はソ連軍の侵攻であり、中国が帰国事業を阻んだと主張する人達もいますが、この論調を拉致問題にも当て嵌めるならば、拉致問題の発生原因は北朝鮮工作員による拉致であり、救出活動は中国・韓国・ロシアが阻んだということになるでしょう。そして、問われているのが帰国後の日本政府による自立支援策であるにもかかわらず、発生原因から党派的に立論している人達ならば、拉致問題においても「現に帰国できたのだから政府に感謝しろ」と主張することは目に見えています。現に2004年5月22日に、そのような家族会バッシングが起こりました。
発生原因という視点でしか論じられない人達には、帰国後の行政支援策までは関心が持続せず、想像力が及ばないのかもしれませんが、中国残留時には子供であり、長らく親・兄弟と離れ離れで異国、しかもそれまで交戦していた土地に取り残され、親からも政府からも日本語教育や職業訓練が受けられなかった人達が、日本に帰国して1年という猶予によって他の日本人と同等の日本語能力や職業技術を身につけ、労働市場で他の日本人と対等に競争できるでしょうか。公平性を説くのであれば、競争結果ではなく、競争機会の公平・平等を図ることが公平性を失するか否かという観点から検討すべきだと思います。
(2006年12月11日)sokの日記:改竄したコメントを基に批判する人達 コメント欄から
中国残留孤児問題と拉致問題に関して。この二つの問題は、当たり前のことですが別問題です。原因も時期も異なります。そんなことは原告も、裁判所も、この問題について論じる者であれば、誰だって理解していることと思います。それは、この議論における当然の前提です。その上で、何が類似していて何が異なるのか、この点を分けて議論しています。原因や時期が異なるからといって、(1)日本に帰国して以降の自立支援策に“著しい”差別取り扱いがあって良いのか(2)日中国交正常化“後”の帰国事業において“不当な”帰国制限措置が課せられて良いのか、といった事柄が問われています。詳しくは、先の拙エントリーの追記部分および判決要旨を参照して頂くとして、一例を判決要旨から引用します。
(2006年12月01日)中国残留日本人孤児訴訟 判決要旨
http://www.news-pj.net/siryou/2006/20061201-youshi.html
<引用開始>
3 具体的には,次の@ないしBは,合理的な根拠なしに残留孤児の帰国を制限する違法な行政行為というべきである。
B昭和61年10月以降,身元判明孤児について,留守家族の身元保証に代わる招へい理由書の提出,特別身元引受人による身元保証といった,入管法が求めているわけでもない手続の履践を求める措置
<引用終了>
ここで『入管法が求めているわけでもない手続の履践』を、殊更、元中国残留孤児に対して強いる措置が妥当か否かということにつき、「戦前」の事情は関係ありません。まして、「ソ連」の介入する余地などありません。それゆえ、私は彼らが争点すら理解しておらず、判決要旨を読まずに非難していると書きました。判決要旨には、元中国残留孤児達の自立支援問題を考えるにあたって、拉致問題が参考になる理由も書かれています。判決要旨の全内容に同意しなくても、そこで争点となっていることを理解した上で議論するのであれば、それは意義のあることだと思います。上田氏やきこり氏は、争点の無理解という根本的な誤りを犯しただけでなく、ぴろんさんへの粘着しか出来なかったという点で、その器の小ささが露呈する結果になりました。
Posted by sok at 2006年12月13日 18:35
なお、kikori2660とは、きこり氏のはてなダイアリーでのIDです。2周しても、きこり氏の行き着く先は同じでした。
2.何故、ウェブ上には保守人権派が表れないのだろう?
ブックマークコメントで、kikori2660氏と仲良くスターを付け合っているken409という人物からは、次のようにコメントを頂きました。
ken409 なんだかなぁ,政治,所詮ポジション トーク 「日頃、愛国者や憂国者を自認・自称する人達が、〜看過しているということ。」…以前、「日ごろ、人権派を自認している左派がチベット問題について言及するのを避けている」という右派からの批判もあったけど…。
あの追い出せデモを相対化するためにチベット問題を持ち出されては、当のチベットの方々にとっても迷惑な話だろうと思います。それから、人権派は別に左派だけではありません。北朝鮮人権問題にも言及し、かつ、チベット問題にも言及していた人物として、私が真っ先に思い浮かべる人物は、若一光司氏。関西ローカルの番組などで時々見かけますが、人権という視点でブレない主張をされていました。靖国問題では左派と意見が重なるため、ウェブ上では左派という認識で捉えられているようですが、主張内容を聞いてみれば、左派というよりは人権派という括りが正確だろうと思います。左派を嫌うあまり、人権や人権派まで嫌うという突っ走り方が、私にはよく理解できません。
ウェブ上には、中国残留孤児問題といえば、左派の領域と思い込む人達がいますが、これは右派の悪い癖です。今、私の手元には『凛として 日本人の生き方』という書籍があります。産経新聞「凛として」取材班によるもので、2005年4月20日に発行されました。題字は横田早紀江氏。取材班が選んだ12人の日本人の生き方が記されています(紙上での連載は収録された12人に止まりません)。その中に、「中国残留孤児の父・山本慈昭」という項があります。
山本氏は、最後の満蒙開拓団として、1945年5月に満州・東安省に移住するも、8月8日のソ連参戦により避難生活が始まり、やがてシベリアへと抑留されます。このとき、妻子とも散り散りになります。帰国後、郷里で死没者名簿の作成、天龍村・平岡ダムでの中国人労務者の遺骨収集をしている山本氏の元に、二つの報せが届きます。一つは、中国残留孤児からの肉親探しの手紙。もう一つは同郷の開拓団仲間からの告白。
「阿智村の子供たちはみんな死んだといったが、あれは引き揚げた者が後ろめたさに口裏を合わせた作り話。子供たちの命を助けようと大人たちが中国人に渡した。啓江さんも中国人に預けられたと聞いた。とても話せなかった。すまない。」
『凛として 日本人の生き方』 121ページより
山本氏は、それまで、開拓団員の遺骨収集と慰霊を考えていたそうですが、同郷の開拓団仲間から長女やその他の子供たちが生きている可能性を教えられ、希望を得ます。そして、中国残留孤児の肉親捜しに奔走する生活が始まります。それより先の具体的な肉親捜しにまつわるエピソードは同書に譲ります。
ウェブ上では、しばしば「極右」新聞とみなされがちな産経新聞が、副題を「日本人の生き方」としている書籍の、それも連載で取り上げた数ある中から、12人のうちの1人として挙げたのが、山本慈昭氏です。中国残留孤児や寡婦の問題は、何も左派の領域ではありません(※)。同様に、他の人権問題であっても、保守人権派に出来ること、議論すべきことはあるはずです。
(※)何らかの危難に巻き込まれた在外同胞が帰国後に受ける政府支援の在り方について、帰国した拉致被害者への支援事例がモデルケースとなれば、他の事例を論じる際にも、支援の文脈に関して見れば、拉致問題が取り上げられます。支援制度は、拉致問題への取り組みが端緒となり、残留孤児問題への取り組みによって拡充された、と。そちらの方が、無関係な排外主義的デモに利用するよりも、はるかに拉致問題を正当に周知させられると考えます。(4月20日1時頃追記)
愛国(=自国を愛する)が何故か排外主義(=他国を嫌う)と摩り替わったり、それぞれ別の主張をしているはずの自分と相容れない考えの人間を十把一絡げに同じグループとして扱ったりするのは、ネット上の“訓練されていない言論”がよく陥る誤謬ですね。
世界の姿はもっと複雑なんだけど、とにかくグループ化することで、物事を単純化して把握したがる衝動だと思うんですよ。私見ですが、彼らは無意識に、自分に複雑な世界を把握するだけの能力がない&自分が社会に対して影響力を持たないことを認めたくないんじゃないかと。相対性理論を理解出来ない人間が、「相対性理論は間違っている」と主張するのと同じで。
「自国人は正しい、外国人は間違っている」という理屈は便利なんですよ。単純で理解しやすい上、暗黙裡に自己肯定を含んでいる。二重の優越感に浸れるんです。
あと外国人が排斥されるとニュースになるけれど、日本人なのに日本社会の片隅に追いやられている人間というのも少なからずいるんじゃないかなあ。その鬱憤を仕事や趣味などいい方向に昇華されるべきなんだけど、ネットでのヘイトスピーチというおかしな形で噴出させる人もいるのかも。
学習の初期段階では、グループ化・単純化することで理解が進むという場合もあるとは思うのですが、それはあくまで便宜上、暫定的にグループ化しているだけのことで、情勢は刻々と変化し、時間が進むことで、それまで顕著に見られなかった問題が噴出するということも多々ある以上、いつまでも初期のグループ化に囚われているのは知的怠惰だと思います。にもかかわらず、その最初期のグループ化(例えば冷戦時代の保革対立的思考)を引き摺ったままの人達を時々、というよりは頻繁にウェブ上では見かけます。
アップデートされることなく固定した最初期のグループ化が次にもたらすものは、「○○なら××に違いない」という思い込みで、これは調査にかける労力を省く理由にもなれば、誹謗中傷やレッテル貼りを肯定する理由にもなり、さらには「どっちもどっち」論に利用される場合さえあります。ネット世論に見られる一貫性の無さ、道徳観や倫理観の退廃は、そうした固定したグループ化の結果だと考えますが、当人達は御指摘のような「二重の優越感」に浸っているとしたら、その優越感を破るような野暮は、耳には入らないかもしれないな、とも思いました。
>外国人が排斥されるとニュースになるけれど、日本人なのに日本社会の片隅に追いやられている人間というのも少なからずいるんじゃないかなあ。
同情を集める誰かへの鬱憤という見方に立った場合、在日外国人以外にも当て嵌まりそうな事例が幾つかあります。一つは、年末年始の「年越し派遣村」へのネット世論からの批判。この時は、勤めていた企業から雇い止めされて、弾き出された日本人に対する冷笑的な反応が多数見られました。世界的な金融恐慌や大企業による何千人規模の派遣切りが報道される中で、たかだか、年末年始のハローワークが閉まっている時期の年越し活動が殊更叩かれ、しかも批判するにしても、湯浅誠氏の主張一つ押さえていない(おそらく『反貧困』一冊さえも読んでいない)という状況でした。それ故、論理的な批判というよりは、不快感を前面に出した罵倒に終始していました。
また、2008年2月19日に起きたイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故の場合は、日本人である漁民へのバッシングが起こりましたが、その後の海難審判で「あたご」側に非があると結論付けられました。あの頃、漁民を非難していた人達が、その後、自説に訂正なり修正なりを加えただろうかというと、私がかつて巡回していた右派ブロガーの方々は、殆どスルーしました。どちらの例でも鬱憤晴らしの対象は日本人であり、公に何かを主張する人達でしたから、排外主義よりも前に、公に主張する行為への忌避があるのではないかと思います。そして、ネット検索により暴かれる左派活動家の関与という物語が、自説の正当性を強化する材料となるのでしょう。
護衛艦あたご漁船清徳丸衝突事件
http://www.mlit.go.jp/jmat/press/h20/210122yh.htm
クライン孝子の日記:マスコミの報道振りは、海を全く知らない愚論!
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=119209&log=20080227
文責に関しては読者メールの掲載という形式で追及を逃れ得る余地を残し、内容面では池田直隆という人物の証言かと思えば、池田直隆という人物がたまたま通りがかったガソリンスタンドで会った、見知らぬオジサンの体験談という、何の根拠にもならないことを基に立論していました。
yoh氏も書かれていますが、結局のところ、外国を排撃→愛国という単純思想で、まさに尊皇攘夷的な思想で、それだけで物事が前には進まないわけ。吹き溜まりですわな。
尊皇攘夷は鎖国を闇雲に考えただけじゃなくて、その一方で薩英戦争などで多少乱暴とはいえ、外部の世界の大事な力の一端を知ったことから、単純な尊皇攘夷的から目を向ける必要を痛感したんではないかなぁ、と。
史実にならって考えるなら、ネットの勤王の志士には、強い冷や水を浴びせることができる存在すがいるのかなぁと言う気がしますね
役回りで言えば、勝海舟を暗殺に来た坂本龍馬を説得して開明して、思想をも啓蒙していしまうような、そんなフェースをする人がいるのかなぁ。。。と。
多勢を相手にしても単独で声を上げられるか、それとも蛮勇・暴挙に加担さえしなければ、何かあった際でも矢面に立つことはない(左右から糾弾されない)と考え、黙認するか。前者が増えれば、状況も好転すると思います。
そして、誰かに期待するよりも、一人一人が自分の言葉で対抗言論を形成することが、別視点を提供するという点では重要だろうと考えます。私が言っても聞く耳をもたない人でも、他の人が言えば聞いてみようという気になるかもしれません。現に女性専用車両論争の時は、佐倉さんのコメントが一つの転換点でした。一人一人が誰かにとっての勝海舟になることが、一番の近道かと。
ただ、『博士の独り言』が今でもトップブロガーであること、『毒吐きてっく』の件では仲間内での金銭トラブルが相当深刻化するまで切れなかったこと等を考えれば、右側から自浄作用が示されることは今後も期待できそうにありません。吹き溜まりには、しがらみが多いということでしょう。
ご無沙汰しています。
sokさんの正鵠を射たご意見にいちいちうなずくばかりです。
過日のカルデロン一家に対するデモには、違和感・嫌悪感しか感じなかった私です。
特にこの件と拉致問題はなんの関連性もないわけで、拉致を絡めさえすれば世論の歓心を引けると言わんばかりの彼らの浅はかな行為には、「自称保守活動家の面々」の底の浅さばかりを感じました。
彼らがこういった恣意的な行為に及ぶたびに、普通の感覚を持った一般世論はカルデロン問題の本質(不法滞在に対する法的対処の問題)だけでなく、拉致問題からも腰を引いていく、という事実になぜ気がつかないのでしょうか?
自分たちの行為が世間一般からどういう風に見えるか?という客観的な視点を持たず、数を頼りに威圧的な行為に打って出るのは、彼らの活動家としての驕り以外の何物でもないと感じます。
でも私は、ネット上ではあえてこの件に関して意見表明することはしませんでした。
時間的余裕がなかったというのもありますが、私の主張を明らかにすることで、執拗に粘着されてはたまらないと自己防衛する気分があったのも事実です。
ネット上で彼らの不貞行為を叩くよりは、現実の活動の場で一般世論に向けて汗をかいて訴える方が実が取れると考え行動している私ですが、しかし、時にはダメなものはダメと毅然と主張することもまた大事であると、sokさんの日記を読んで思い至っております。
とはいえ、sokさんもご指摘のように、
>右側から自浄作用が示されることは今後も期待できそうにありません。
というのも、また一つの事実であろうかと思います。
身内に甘く是々非々の思考を持てない彼らに向けて、どんな言葉を説いても理解の他なのは、過去に痛いほど実感しておりますし。
私個人の主義主張も、どちらかといえば保守・右寄りではあるのですが、問題の彼らのあまりにも品のない行動の数々を見るにつけ、下手に自分の保守的主張を繰り出して、この人たちと同類にされたくないという保身が働くのも事実。
カルデロン問題も拉致問題も、それから憲法や靖国やその他諸々の問題も、彼らの恣意的行為がおかしな色をつけるからこそ、逆に世論の理解を遠ざけているのではないか?と思うことしきりの今日この頃です。
先ず、個々人のリソースの問題(時間的余裕、活動の優先順位など)もありますので、本来であれば、不作為の責を問う気はありませんし、他の活動をされている方が、そちらを優先することを批判する趣旨でもありません。また、執拗に粘着された経験のある方、不毛な議論に延々と時間を割いた経験のある方が、言及することに伴う時間や労力を惜しむ気持ちも分かります。したがって、これから書くことは、日々「痛い」ものを探している人達が、あのデモの存在を見過ごすはずがないだろうに、やり過ごした件について、です。
おそらく黙っていた人達の多くも、あのデモに関しては違和感を(或いはもっとはっきりと嫌悪感を)持っていたのではないかと思いますが(そうであって欲しいですが)、言及する人がいなければ、そうした違和感や嫌悪感を持っている人の存在は、見えてきません。ネット上では、書かれていないものは存在しないに等しいです。目に見える状態になって、初めてその存在が確認できるのであって、それまではその存在を推認するしかありません。それも、ただ書かれただけでは、日々の報道や相手方の正当化言論に呑まれるばかりで、広大なネット上での対抗言論として、それなりの存在感を持っているとまではいえません。
この存在感は、ネット検索(他者の目に触れる機会)にも影響します。対抗言論が存在感を示せない間は、動員をかけられる側の言論、圧倒的なアクセス数を誇るサイトの消極的な支持(黙認・容認)を取り付けた側の言論が、ネット検索にひっかかる可能性を一方的に高めますし、検索で上位に来れば、それだけ新たに見る人も増え、存在感を増します。一定の対抗言論が形成されるまでは、傍観は相手に有利に作用します。
実際には、左派や元右派からの対抗言論は既に形成されていましたが、それだけでは党派性という話に論点を摩り替えられる余地を残します。当の在特会やその支持者も、左側からの批判しか目に付かないからこそ、党派の問題として片付けようとしたのだと思います。その余地を断って、左右を問わず批判の存在感を示すには、右側からの批判(どちらかと言えば右寄りの思想と親和的な考えを持つ人達からの批判)が不可欠でした。けれど、リソース上の競合もないように見える人達さえも、傍観しました。これでは、ネット上の世論としては、批判の跡を残す気が無い(黙認・容認しているもの)と看做されても仕方がないと思いました。
今年1月、映画『めぐみ−引き裂かれた家族の30年』(原題「アブダクション」)が、デュポン賞を受賞したという報道がありました。その報道では、同賞は放送ジャーナリズム分野におけるピューリッツアー賞であるとの説明でした。日本では、当初、上映も困難だった映画が、世界各国で上映され、評価を得るに至る。その理由は何なのか。家族という国境を超えても理解され得るテーマであることもありますが、人権意識の高い国々の市井の人々に訴えかけるものがあったからだと思います。
映画が製作され、上映され、権威ある賞を受賞したとしても、拉致問題が直ちに解決へと向かう訳ではありませんが、拉致問題が国内の捜査のみで完結する犯罪ではない以上、常に国際社会に向けた発信は、続けていかなければなりません。その際に、国を超えて広く訴えかけるメッセージとして、人権はやはり重要な視点だろうと考えます。チベット問題その他における主張との一貫性を保つという点から見ても、人権を軽視する風潮は害にしかなりません。
また、人権視点を抜きにしても、かつて13歳で拉致された少女の救出を訴える国民が、現在13歳である少女の親を思う気持ちを侮辱し、示威行動を実行した集団に対して、何の苦言も呈さないということは、傍から見て奇異でしょうね。両親の不法入国・不法滞在の責は当然としても、他方でモトケン氏のような指摘もあり、かつ既に当初の問題は一応の決着がついているということと考えあわせても、それ以上どうこうする必要性が欠片もありませんでしたから。本当に、世論の理解を遠ざけるようなことはやめてくれと思います。
長野での暴動にも中国国旗もって参加してたね
やっぱり追放だね
sokは本当に嘘吐きですね
自分の理論を正当化するためなら平気でう嘘をつく左派って救いようがなく愚かな生き物ですね。
年越し派遣村に集まってた人間のなかで不況によって急に契約を打ち切られた人間は一割にも満たなかったよな。
大部分の人間は働く気がなく浮浪者であることから抜け出す努力をせずに長期間浮浪者をしていた人間たちだよね。
しかも、就職先を斡旋されても断ったうえで生活保護まで要求してたよな。
本当に困ってる人たちはたくさんいるのに
共産党員を先頭に集団で役所に押しかけてたよね。
だったら批判も集まるだろ
sokは以前もでたらめ書いて批判されたのに、学習できない人ですね。
そんなあなたにアドバイスします。
1しっかり調べろ。
2自分が頭が悪いことを理解しろ
3自分に酔ってませんか?鏡を見なさい。
この感情はそんなにいけないことかなぁ。
そんなに悪いことかなぁ。
返事は新エントリーにて行ないましたので、そちらをご覧下さい。
2009年7月26日 抽象的な救済対象を持ち出して具体的な救貧活動を貶める行為について
http://sok-sok.seesaa.net/article/124295923.html
yukiさんへ
貴方が「外人は嫌いだから日本から出て行って欲しい。特に法を破る外人は」と思うことは、誰にも止められません。そのような内心のことは問題にしていません。しかし、そう内心で思うことと、思ったことを現実の具体的な行動に移すことの間には大きな差があります。
在特会は、思ったことを具体的な行動に移しました。その行動の内容が批判されているのです。既に在留特別許可も下りて、一応の区切りがついた問題に関して、子供の生活圏を狙って、徒党を組んで排斥デモをしたことが。桜井誠氏の内心が問題なのではありません(但し、私は在特会のような、行くところまで行ってしまった人達には、あまり期待していませんので、拙記事が読者として想定している人達も彼らではありません。まあ、読めば分かることですが)。
また、夫婦の過去の不法入国を問題視するにしても、娘まで同様に嫌悪するということは、これは一種の原罪を含んでいます。不法入国者の娘もまた犯罪者だから出て行け、と。それが普通の感情だというのであれば、私からは特にこれ以上言うべきことはありません。
警視庁公安部にとりあえず連絡しておきました。
疚しい交友関係が無ければお続けください。
基本的には、業者コメントやスパムTBしか削除しませんが、無内容なコメントが続くようであれば、以後は削除も検討します。一度目は、アンチな人のコメントがどの程度のものか、という記録として残しておきます。