>ネット上のソースで信用できるソースなんかほぼ0です。
所謂「騒音おばさんの真実」というウェブ上で語られている物語(以下「真実」)に、胡散臭さを感じてしまうのは、ソースが不充分であるということだけではないだろう、と思う。
語り部達の語り口について
例えば、この「真実」に言及しているブログやコピペの多くが、加害者の名前を「Miyoco」や「miyoco」と表記している。『日常ごっこ』さんが取り上げたサイトはカタカナ表記であり、まだマシな方ではあるが、何故、わざわざカタカナで表記するのだろうか?
「真実」とされるものは、事件当時、マスメディアや評論家が一方の一面だけを面白おかしく取り上げるばかりで、報道機関として碌に語ってこなかった部分を伝える、謂わばメディア批判の文脈を備えた物語のはずなのに、その物語の語り部の多くが、ワイドショー以上に加害者を消費したウェブ上の遊び、「さっさとお引越し」ラップ等での表記と同じものを、躊躇いなく使っているのである。
彼らは、何のために「真実」を語り、メディアを批判するのか。事実を淡々と記録し続けるのであれば、当事者に関する表記も淡々と記されるであろうし、被疑者・被告人・受刑者の名誉の回復が主眼であるならば、「真実」以前の報道や祭によってネタ化された表記とは決別するであろう。「Miyoco」や「miyoco」という表記からは、そうした姿勢は伝わってこない。語り口と、考えられそうな目的が、一致しない。けれど、メディアが伝えない「真実」の物語だけは語ろうとする。その動機、目的が気になる。
「真実」の物語について
事件・裁判の流れに関しては、『miyoco年表』が、それなりにまとまっている(ように思える)が、このサイトもやはり『miyoco』表記である。ここではメディアが殆ど報道してこなかった「真実」の一つである家族の難病についても、『劇画マッドマックス』での劇画化画像の紹介という形で触れている。劇画の基になったのではないかと考えられる雑誌記事としては、ウェブ上で確認できるものでは『新潮45 2005年6月号』がある。
>【特別ルポ】「ヒップホップ布団叩き騒動」 何が彼女をそうさせたか 新井省吾
バックナンバーを取り寄せてまで確認しようという情熱は、私にはない。関連するキーワードで検索すれば、この記事の概要とされるものを載せているブログへも行ける。但し、確認した限りでは、ここでも判で押したように『miyoco』表記やカタカナ表記ばかりが目に入る。
また、『劇画マッドマックス』掲載劇画にしても、『新潮45』2005年6月号記事の概要コピペにしても、家族の難病に関する記述はあっても、被害者夫婦が創価学会員やその関係者であるという記述は見当たらない。この“見当たらない”部分に関する加筆が、「真実」を語りたがろうとする人達の主目的なのだろうと思う(ニコニコ動画のランキングを反創価学会動画で埋め尽くそうとするネット街宣と似たようなものだろうか?)。
被害者夫婦が創価学会員なのかどうかも、彼らが加害者に対して何かをしていたのかどうかも、その程度も分からないが、この「真実」の物語を目にする時、二つの事件のことを思い出す。一つは、東京都文京区で起こった幼女殺害事件。そこで遺族に向けられた世間からのバッシング。もう一つは、足立区綾瀬で起こった女子高生殺害事件に関するネット上でのデマが招いた芸能人への誹謗中傷。こちらは足立区出身者で元不良→不良が起こした過去の陰惨な事件がある→○○は加害者側の関係者に違いない、という連想ゲームが名誉毀損事件へと発展した。
どの地区に学会員が多いのかは学会員でもない私には分からないが、何故、見当たらないキーワード「創価学会」が加筆されたのかという点を考えると、上記と同様の連想ゲーム感覚の可能性ぐらいしか思い当たらない。そして、このゲームの参加者は、学会員に対しては何をやっても、根拠なんて示せずとも構わないという発想なのだろうと思う。
被害者側の監視・記録について
昔、実家の壁に落書きをされたことがあった。誰がやったのかは、結局、分からず終いだった。それでも、いつ、どのような落書きがされたかは記録しておいた。デジカメで図柄も撮った。外出した際に、同じ図柄の落書きを見つけたら、いつ、どこで見つけたかを記録し、写真にも残した。もしかしたら、落書きをしている人物または集団の行動範囲の特定として、何かの機会に使うかもしれないから、という思いで記録した。
実家に債権者と名乗る男が来たこともあった。この時は、家族が男の応対をしている間に、男の乗ってきた車(かなり大胆な形で玄関前の歩道に乗り上げていた車)のナンバーを記録し、デジカメに撮影し、その車種についてはメーカーHPで調べ、その内容をプリントアウトした。その上で、債権譲渡の通知が届いていないことを指摘し、退去するように伝えたが、男が応じないので警察を呼んだ。警官に記録したものの一切を渡せる準備があることを伝えて、そして実際に警官が現れたところで、男は来た時の威勢からは考えられないような低姿勢で退散した。
世の中には、よく分からない理由で自分達の財産や平穏が傷付けられることがあり、事件化する前からそれに備えようとすれば、どうしても自己防衛は必要になる。そして、個人にとっての自己防衛として、腕力に頼らない方法で真っ先に考えられるのは、記録の保存だろう。本件騒音問題において、「真実」を語る人達は、被害者の被害状況に関するビデオ撮影を疑惑の一つとしているが、私自身も同じ立場なら記録だけは付けると思う。そんなもの使わないにこしたことはないが、それがいずれ自身の身を守る材料になるかもしれないのだから。
被害の一例として記録するビデオ撮影が問題なのではなく、同じ場面を繰り返し放送し、放送されるたびに映像も説明も簡略化されていく事件報道の在り方、被害者側からの提供情報に依拠するお手軽な取材姿勢にこそ問題があるのであって、被害記録としてのビデオ撮影が問題ではないだろう。
監視カメラ批判の立場の人達がどう考えるかは分からないが、日頃は監視カメラ批判論に批判的な人達が、この物語を持ち出して、被害記録としてのビデオ撮影を疑惑の根拠にする場合に関しては、違和感を覚える。冤罪事件や被疑者・被告人の人権に殆ど関心を払ってこなかった人達または相当批判的な人達が、痴漢冤罪事件の話題になると途端に人権派の闘士に変貌することへの違和感と似ている。プリンシプルはないのだろうか?
ソースの不充分さ以外からも受ける不信感
「真実」の物語とその語り部達の多くに対する不信感は、ソースが不充分であるということだけではなく、反メディア、反創価学会という以外に、何ら一貫した思考の跡が窺えないことにもあるだろうと思う。そして、その反メディア、反創価学会の意図のために、騒音事件を改めて利用しているということ。
「さっさとお引越し」ラップ等で騒音事件を散々消費した後で、(表記方法さえ変えられずに)いい子ぶって人権派を気取ってみても、やっぱり落ち着く先は反メディアや反創価学会止まり。マスメディアや創価学会は、今まで事件を消費してきたことの全責任を押しつける対象として、丁度いいのだろう。自分達は「報道に騙されてきた自分」や「ネットで真実に気づいた自分」という立場で、状況に応じていつだって被害者側に移れるから、無敵。いつだって正義の行使者。俄か人権派を気取るのに都合のいい物語なのだろう。
関連リンク
^^ 秒刊SUNDAY:テレビは『騒音おばさんをおもちゃにした』NHK番組で出演者凍りつく
今回ブログ主さんが取り上げた騒音おばさん事件も「騒音おばさんは悪い人間何だから、何をされても仕方ない。どんなに面白半分でネタにしようと勝手」という意識が働いているのでは。要は、「相手が悪い」が免罪符になってしまう群衆心理なのでしょう。
ただ「人権派を気取る」とありますが、個人的経験で言うと逆に「人権派を叩いて正義感ぶる」人間もネットにはたくさんいる気がします。あるものを巨悪と仮定して、正義を気取って魔女狩りを楽しむという点ではどちらもそう変わりはないのですが。
>もし相手が本当に犯人なら何をやってもいいと思っていたのでしょうか。
そう考えていた可能性はあるでしょうね。昨年の、元AV女優の覚せい剤取締法違反および大麻取締法違反事件の際の、ある種のネット世論の反応が象徴的でした。彼らは当該元女優の出演する製品パッケージ写真(これは謂わば晴の状態)と逮捕時あるいは覚せい剤や大麻を常習している頃のスッピン写真と思われるものを並列して、その落差を楽しんでいました。しかし、考えてみれば、
1.製品パッケージ写真(晴)
2.普段の化粧(褻)
3.普段のスッピン
4.覚せい剤や大麻を常習した状態でのスッピン
5.覚せい剤や大麻を常習した状態での逮捕時のスッピン
というように、女性が化粧次第で見違えるとしても、それは通常は2と3の対比の話であって、この件に関する嘲笑は1(晴の状態)と4or5(褻の状態ですらないもの)の比較であり、罪と罰という観点からだけでなく、容姿や化粧に関する意見として見ても、妥当性を欠いていました。一度、犯罪者となり、そのように認識されると、そこまでの扱いを当然と思っている人もいるようです。
「人権派を気取る」ことと「人権派を叩いて正義感ぶる」ことに関しては、同一人物の中で葛藤なく並立しているパターンもあります。気に入らない対象がいて、その者を叩ける際に使える武器が人権であれば人権で殴り、気に入らない対象が人権派であれば、これを叩くために別の武器(被害者感情や説明責任など)を用いて、人権まで軽視する言動を、何度も目にしました。原則の無さに起因するものだろうと思います。
それ、要するに二枚舌もしくはダブルスタンダードですね…。
貴方が述べていることも「違和感」に過ぎなく、「ネットの情報がガセ」という確かな証拠があることではないですよね。
貴方がネットの情報に違和感を覚えたのと同様に、
私はマスコミのやり方に違和感を覚えたので、ネットの情報の一部は納得できるものがありました。
マスコミに関して言えば、当時、クスクス笑いをしながら騒音おばさんを撮影して被害者を自称する隣人には疑問を感じていたし、
最初はケンカのようなやりとりだったVTRを、日が経つにつれ隣人の声を消していって、一方的に訳の分からないことを怒鳴り散らす狂人に映るように編集していったことも「公平な報道」とは真逆のものが感じられました。
ネットに関して言えば、「隣人=創価学会員説」や「不幸な状況(家族の急逝や介護)」など確かめようのな事に関しては可能性としてしか考えられませんが、
(当時の報道での)「普通の人」という近隣住民のコメントや、理解不能だった騒音おばさんの発言内容にも合点のいく部分があります。
そういう確かなこと(実際に報道されたこと・事実であれば矛盾が生じること等)だけで判断していくと、マスコミに対しての疑問の方が大きくなります。
多くの人がネットの情報を信じたのも、そういう部分が大きいんじゃないでしょうか。
それによって不確かな部分まで信じてしまったんじゃないかと思います。
ネットの情報を鵜呑みにするつもりもありませんが、少なくとも当時マスコミが報道していたような一方的で脈絡のないものではなかったはずだと思ってます。
日本中が敵になってしまった影響の大きさから考えても、騒音おばさんはある意味被害者とも言えるのではないかと思います。
例え本当に一方的な加害者だったとしても、新聞の三面に載る程度の事をマスコミが煽って大きく取り上げたのは確かな事実であり、それによって負った心の傷は大きいと思います。
■裁判記録
ttp://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/8727C2ABEE719B2149256E83002701DC.pdf