ある夫婦、その妻に思いを寄せる男性、この3人とは何の関係もない男性、おじいさん。この5人が乗っていた船が難破し、無人島に流された。
その過程で、夫婦の夫は行方不明となり、島に流れ着いたのは4人だった。この時点で夫の安否はわからない。
夫の安否を確かめるには、船を出して捜索するしかないが、妻には船をつくる能力や、直す力はない。船をつくり、直すことができるのは、夫婦とは縁もゆかりもない男性ただひとりだった。
妻はその男性に頼んだ。「船を直してください。夫を探したいのです」と。
男性は直すと言った。だが、条件をつけた。その条件とは妻と一夜限りの関係を持つこと。
妻は悩み、おじいさんに相談した。おじいさんは「気持ちのままに行動しなさい」と。
妻は結局、その男性と関係を持った。男性は約束を守り、船を直した。
そして船が直り、これからまさに夫を探すというときに、夫が無人島に自力でたどり着いた。
妻は夫に、捜索するため、船を直すために男性と関係を持ってしまったことを告白した。
夫はそんな妻を許さなかった。不貞であると。
夫婦は破局した。
ひとりになった妻の様子を見て、思いを寄せていた男が言った。「あなたが好きです」。
(中略)
断然、おじいさんが悪い!
じじいが悪いです(キッパリ)。理由はこう。
最も無責任だから
自分が思うに、この話の中では全員が何らかのリスクを負っているのです。
(後略)
この設定で、何故「断然、おじいさんが悪い!」と言えるのだろうか?(追記あり)
1.おじいさん(老人)について
5人の登場人物の内、夫が自力で島に辿り着くまでに妻と関わった人間は2人。船を修理する技能を持った男と、老人だけ。この内、妻と修理工との間には船の修理に関する意思の合致と対価関係があるのに対して、妻と老人の間には対価関係がない。一方は有償・双務の契約であり、他方は単なる相談事である。リンク先のブロガーは「リスク」を念頭に誰が悪いかを検討しているが、単なる相談に有償・双務契約と同レベルのリスクを要求し、平時に不貞を唆したわけでもないのに、リスクを負っていないから無責任で「悪い!」と責められるのでは、無償の相談事など誰も引き受けなくなるだろう。
「リスク」を負っていないがゆえに批判されているが、無責任の謗りを免れるために責任というリスクを取るとするならば、それは誰に対する責任だろうか。外注と考えれば、妻は修理工に船の修理サービスを発注し、老人に究極の選択についての問題解決方法を発注していることになる。老人に、妻との関係で解決方法の提示責任を求めるとするならば、それは当事者でさえ中々決断を下せないような究極の選択について、双方の父母でもない者に、ただ年長者というだけで解法提示責任を要求するということである。それに見合う対価とは何か。
また、提示した解法によって夫婦関係が拗れた場合には、老人はどのような責任を問われるのか。舞台は無人島であり、コンサルタントとしての老人の信用低下というリスクは他4名に限定される。それ以上のリスクを負わせるとすれば、生還した夫との関係で、相談を持ちかけてきた妻との連座責任を負わせることが考えられるが、その場合は「実は私が悩む彼女の背中を押しました」と告白し、夫に対して土下座して謝罪することがリスクを負ったことになるのだろうか。そうしたリスクに見合う対価とは如何なるものなのだろうか。対価関係に無い者に対して対価関係同等のリスクを要求すること自体がナンセンスであり、老人は「気持ちのままに行動しなさい」という抽象論で充分に役割を果たしている。
2.妻に思いを寄せる男性(傍観者)について
自身が思いを寄せる女性が、夫の救助か貞操かという究極の選択を迫られている時には何らの協力も申し出ず、心の支えにもならず、夫が自力で生還し、夫婦関係が破局した後に現れて、告白した人物。リンク先のブロガーは、老人に対して「無責任な傍観者であることを嫌う」と言う理由から批判しているが、この人物に対しては「好きならしょうがないでしょう」で済ませている。さっきまでの「リスク」論はどこにいったのだろうか?
一体、この男がどのようなリスクを負っているのか。元々、付き合ってもいないのだから、ゼロ地点である。失うものはない。振られて傷心するというリスクしかない。告白する時期を見計らっていただけで、女性を振り向かせるための努力は何もしていない。この物語の中では、何の努力もしておらず、何らコストを支払っていない存在である。
3.船を直した男性(修理工)について
一見すると、修理工と女性との間には意思の合致があり、船を直すというサービスも提供しているので、ギブアンドテイクと考えられそうだが(※)、そもそもこのような状況では、女性には夫を救うための他の選択肢が何もない。あるのは夫を見捨てるか、救うために自分に出来ることをするという選択である。自由意思による契約とは言い難い上に、修理工は、夫を救出するという観点からは女性に選択肢がないことを知っていて、断れないことを知っていながら、その窮状を利用して法外な要求をしているのだから、その地位や環境を悪用した行為であり、社会的妥当性を欠く契約内容といえる。
セクハラやアルハラ、パワハラなどが充分に問題視されるようになった現代社会において、企業研修の一環としてのディスカッションに、このような題材は不適切だろう。道徳論や感情論と切り捨てる前に、例えば、派遣社員の女性に対して、派遣継続を条件に肉体関係を迫る人事部長がいたとすれば、「その人事部長はリスクを負っているから悪くない(又は悪くない方だ)」と言えるのかと考えれば分かること。
(※)尤も、船が難破して無人島に漂着、その船を「直して下さい」ということは、船は夫を救出するための道具というだけでなく、修理工を含む漂着者全員が出航地へと戻る手段でもある訳で、帰還の意思があり救助船が来ない場合には、いずれは破損した船を修理して出航するしかない(物語中、船の規模や数は問われていないのでそこは考慮しない)。
4.一番悪いのは誰か
様々な意見を出し合い、調整し、一応の結論を出すということだけが求められて、企業倫理が置き去りにされるようなディスカッションに意味を感じない。誰が悪いのかと順位を付けるとすれば、一番悪いのは、このような題材で、参加者の貴重な時間を浪費させた企業担当者であり、次に「リスク」論に一貫性を欠くリンク先ブロガーだろう。その後は、修理工、夫
5.冷静で合理的なのは誰か(追記あり)
夫と傍観者とではどちらが悪いのだろうか。夫への批判は容易に想像できるが、今まさに生死の危険から一先ず逃れられたばかりの夫に、冷静な判断が下せるかということには疑問があり、無人島到着直後という時点で妻の事情を考慮できない点を責めるのは酷な気がする。人間、いつだって合理的に振る舞えるとは限らない。時間が経っても(例えば救助船が来る頃までに)妻の事情を考慮しないのであれば、その時には修理工に次いで酷いという評価になるだろう。冷静になってもなお貞操観念が最重要事項というのは、ウェブ上の所謂「処女信仰」的なコメントと同様の軽薄さである。
他方、女性が困難な選択を迫られている際には何ら支えにならず(また、他の遭難者の救助にも関心を払わず)、夫婦ともに冷静な判断が下せない時期(破局直後)に現れて、告白する傍観者はどうか(※)。修理工や夫といった競争相手が目的を達したり、破局した後に現れて、自己の目的を果たそうとする様子からは、終始冷静である。状況を利用して、自己の利益を満たそうとしている点では修理工と同様であり、違いは地位や契約関係を利用しておらず、自由恋愛の範疇であること。共通点と相違点、どちらを重視するかは人それぞれだが、冷静な判断が下せる立場にある者だからこそ、その道義的な責任も問うことが出来るのではないか。
(※1月21日20時00分頃追記)善悪と好悪を混同している
この物語において善悪を問うのであれば、何を軸に判断するのか。夫婦の破局に至った原因を軸に考えれば、妻と修理工と夫の三角関係の話であり、老人の関与は少なく、傍観者については何ら関与していない。関与する義務が無く、関与していない傍観者を悪とするのは、妥当な結論とはいえない。
では、何故、傍観者の悪に言及したのか。妻は生死不明の夫の救出可能性を高めるために、夫の生命と貞操の決断を迫られて、相談までして悩んだ末に、夫の生命を選んでいる。限られた選択肢の中でやれることをやっている。他方、傍観者の場合は、思いを寄せる女性が苦悩している際には何ら行動していない。愛する者の困難に対して、一方は積極的に行動し、他方は全く行動していない。想い人への情を軸に判断すると、傍観者の終始冷静で利己的な様は修理工の行動にも通じる。
しかし、それは個人的な好悪に過ぎない。傍観者にとって妻は思いを寄せる対象であっても、夫はそうではない。ある状況下での夫婦の破局が題材であり、その破局に関与していない者の善悪を問うのは無理がある。利己的なだけなら、人は誰しも利己的なものだから、善悪を問うても仕方ない(人が聖人を目指すのでもなければ)。したがって、これは個人的な好悪のレベルに過ぎず、善悪といった判断には向かない。この点について結論を修正しなければならない。【追記ここまで】
6.葛藤を迫られるのは誰か
ところで、この無人島漂着物語にしても、「川を渡る女」という話にしても、愛と貞操の選択を迫られるのは、どうして女性ばかりなのだろうか。女性に対してはより貞操観念が強く求められ、男性に対してはあまり気にされないからだろうか。男女ともに参加する研修用のディスカッション素材であるならば、天秤にかけるものはどちらの性から見ても同等に判断し得るものの方が、ディスカッションをプロジェクトに置き換えた際に(実務の場面で)、応用し易いだろうに。女性だけが葛藤を迫られる物語で、参加した男性達は納得できたのだろうか。彼らは全然試されていないではないか。
(1a)夫の生還前 夫 −( 愛 )− 妻 −(貞操)− 修理工
(1b)夫の生還後 夫 −(貞操)− 妻 −( 愛 )− 傍観者
(2a) 妻 → (行動) → 夫
(2b)傍観者 → (静観) → 妻
いつも更新、とても楽しみにしています。
私もこの手の心理テスト系に長年違和感があり・・・。
とても楽しく読ませていただきました。
ありがとうございました。
誰でも前提知識なく参入できるので、友人間の他愛無い話題としては使えそうですが、企業研修ネタには向いていない設定もありますね。今回の件では設定だけでなく、これが出来るビジネスマンの発想だと言わんばかりの奇を衒った回答(老人が一番悪い論)への違和感もあり、疑問に思った点を纏めてみました。尤も、リスク論に引き摺られた感もあり、その点は追記により軌道修正しました。
私は固定概念が気持ち悪いなって思いました。
例えば‘女’はか弱く無力。‘男’は自己顕示欲が強く細やかな気配りが出来ない。‘恋’は自分を見失わせる。‘老人’は物知りで判断力があり穏やか…など。
一つの大きな特徴があまりに目立ってしまい、裏側の部分まで想像出来ないのはなんか人間らしくなくて嫌です。
だからこの問題を作った方は、問題を解く側に短絡的思考を強要してるなって思いました。
それでも強いて答えを出すなら誰も悪くないと思いますが、シュール過ぎる設定が笑えません。苦笑 いくつか状況を変えることで、問題を解く側の気持ちも変わってくるように思います。
そうゆう意味では面白いかも…
企業側が雇用者に求めるものが、責任感や正義感ではなく分析力や対応能力だとしたら、仮に老人という答えを提示しただけのようにも感じます。
ごめんなさい、原文を読んでないのでよく分からないのですが(*゜▽゜ノノ゛☆
書かれている前提に従ってのみ答えを出そうとすることでは、簡単に誰かに操られてしまいますね。
単純化のための固定概念とはいえ、常に女性だけが過大な選択を迫られる(夫の選択肢としては自身の貞操観念に反した存在たる妻を受け入れるか切り捨てるかであって、妻ほどの状況の切迫性や時間的制限はない)物語の仕立て方に、嫌なものを感じました。ご指摘のように、いくつか状況や登場人物の役割分担を変えてみれば、ディスカッション参加者一人一人が重視する要素が見えてきて面白いのかもしれません。ただ、老人に責任求めるのは、非営利の存在に営利を求めるようで、企業として無理があるように思いました。
通りすがりさん、コメントありがとうございます。
難破について船長の責任を問うならば、私なら、場合分けをした上で造船会社や船会社の責任も検討するでしょうね。尤も、物語の核は極限状態における夫婦の破局なんですけど(難破自体は舞台設定に持ち込むための演出)。書かれている内容を読み込むのは文章読解の基本であり、それを超えるなら真咲さんや院生さんのように誰も悪くないという視点に立つか、悪問ゆえに答えないという姿勢を貫くか、設問者の意図を問うことでしょう。貴方は一体誰に操られて、船長の責任に言及されているのですか?
次からは「通りすがり」ではなく、もう少し特定性・一貫性あるハンドルネームをお願いします。
夫→妻に対しての不寛容の疑惑。
妻→不貞の疑惑。
無関係の男→弱みに付け込んだ疑惑。
慕う男→人の不幸に付け込んだ疑惑。
老人→アドバイスが悪い結果をもたらした疑惑。
という5つの“別個の”罪もしくはその疑惑が存在するだけで、「誰が一番悪い」なんて議論自体がそもそも成立しないように思うのですが。
「共同で銀行強盗を働いた」とか「隣りの庭に入った庭木の枝が勝手に切られた」なんて話なら、「誰が一番悪い」という問い掛けもあり得ると思うんですけどね。
設問の文章は、漂着者5名の視点ではなく、いわば神の視点での記述ですから、そこは一旦、確定的事実と看做して構わないと思います。従って、それぞれ「の疑惑」は不要でしょう。それらを「疑惑」とするのであれば、御指摘の例示(物語)に対しても「共同で銀行強盗を働いた疑惑」や「隣りの庭に入った庭木の枝が勝手に切った疑惑」とするのが公平でしょうし、その上で、疑惑段階では主犯が誰かも確定できないのですから、「誰が一番悪い」と問い掛けることが「あり得る」ことだとは思えません。
漂着者5名の行為の性質が異なることについては、元となる「川を渡る女」においても同様であり、それはこの種の設問における前提と見るべきでしょう。性質を異にする行為に対して、敢えて序列を付けることを要求し、その過程での議論を見ることが、この種の設問の意図だと思います。
夫の妻に対する不寛容、妻のある状況下における選択肢のない不貞行為、修理技能を持つ男の公序良俗に反した契約行為、慕う男の人の不幸に付け込んだ告白、老人の無償行為としての無難な助言。これら性質を異にする行為に対して序列を付けること自体は、実在の人物に対する攻撃行為として持ち出すのであれば論外ですが、あくまで思考実験のために架空の物語上において行なうのであれば、各人の優先順位や原則・例外を表出・認識させる点において、全く理なきことだとは思いません。尤も、性質を異にするといっても、契約行為と非契約行為、夫婦間の貞操義務と他の同義的責任は区別されるでしょうけれど。
本論の方ですが、あくまで「不寛容」「不貞」「公序良俗違反」「不幸への付け込み」「無責任な助言」というそれぞれの行為について、討論参加者の主観的価値感によって序列をつけるお題だということでしょうか。
「それが本当の意味で不貞と言えるのか」という点に関していえば、所属する社会によっても、時代によっても違ってくるでしょうし、「罪の度合い」といってもあくまで民法上の貞操義務や道義的な責任でしょうから、夫婦間で決着がついているならば、他者がとやかく言うことではないという意味ではそうでしょうね。
物語外の設定としては、新入社員の企業研修の一環としてのディスカッションということですから、求められている回答(模範解答)は、その企業が求める人物像に沿ったものであったり、問題解決の方向性と合致したものであったりするのだろうと思います。ただ、そうした結論へと調整されるに至るまでに、この種の価値観の衝突を狙った設問(性質を異にする行為間の「誰が一番悪いか」という設問)においては、当然のように各人の主観的価値観による序列付けが表出するものだと思います。
>討論参加者の主観的価値感によって序列をつけるお題だということでしょうか。
現に、タケルンバ氏自身が『最も悪いと思う人は誰ですか?許せない順番をつけるとしたら?』『ちなみに、そのグループディスカッションでは、女性陣は関係を迫った男が許せないと。関係を持つことを条件に、船を直すだなんてヒドイ!となったそうで、それに対して男性陣が「約束を守ったんだから、いいじゃないか」「妻も同意の上だろ」ということで、その男性陣は悪くないということで、数の力をもって押し切られたようです。女性の感情論を、ムリヤリ数の力と、論理で押し切ったようですな。』と書いています。そういうお題だったということでしょう。