No.14441 RE:謝罪 投稿者:sok NEW! 投稿日:2008/10/24(Fri) 18:47
1.スレが伸びた状態を「スレが無駄に伸びる」と判断するのは誰か。「スレが伸びる=荒れる」と判断するのは誰か。反中や反民主スレでは無内容でもスレが伸びる傾向にありますが、それを「スレが無駄に伸びる」と評している人を見たことがありません。つまり、スレが伸びても「無駄に伸びる」と評されるものと、そうでないものが存在するということです。しかし、どうもその評価の基準は「俺様好みかどうか」という程度のようです。「俺様好み」であれば多少言葉遣いが荒くても許容されますし、「俺様好み」でなければ文意が一意に定まるように丁寧に書いたところで「小難しい言葉」論や「喧嘩両成敗」論や「これしきの話題」論によって切捨てられます。不思議ですね。
2.人間は感情の動物だとして、感情のみに任せて書くことに意味はあるのか。感情は勿論大切ですが、それを他人の目に触れさせるからには、何か相応の論理に乗せる必要があります。不快だからというだけで他人を叩きのめすような不快感至上主義、或いはデマ、二重基準、陰謀論などを肯定するために、感情の大切さを持ち出すのは筋違いです。
3.「様々な意見」や「色んな意見」と書かれていますが、そのようなものは私が書くまでは当該スレには存在しませんでした。一方的な袋叩きのみでした。唯一「色んな意見」と言えそうなのは、消去される前にPさんが両論にリンクされていたことくらいでしょう(このスレにおいても問題の本質を自分なりに提示されているのは彼女だけです)。他方、管理人Nさん自身はNo.14425で「また違った感じにスレッドが流れそうな空気さえ感じ取れたので」と言っており、かつ、そうならないことを「結果オーライ」と評しているのですから、「様々な意見」や「色んな意見」なんて初めから無かったのです。
4.北巣本保育園の問題に関しては、関西在住の方ならば、ローカル情報番組『ムーブ!』で今年の2月と6月に藤井誠二さん(犯罪被害者問題を多く取材しているジャーナリストです)のコーナーで放送されていたので知っていた人もいるかもしれませんが、ウェブ上で吹き上がっていた人達は、「園児の涙」報道をきっかけに本件について知って反発しているだけでしょう。そのような反メディア止まりの人達に対しては、では、今回の煽情的報道に頼らずに、普段から自身のアンテナだけで今回のような問題について認知できたのか、という点について聞いてみたいものです(※2)。
5.マスメディア側には紙面や放送枠・日程の都合などがあり、そうした中で一方の当事者たる園側が差し迫った行政代執行の不当性を訴えるにあたって、(たとえそれが煽情的な報道であったとしても)マスメディアを頼らずに急いで世論を喚起するような方法・可能性が他にあったのかということについて、誰も言及していません。同じ涙でも、園児の涙は汚い涙で、府知事の涙は綺麗な涙なのでしょうか?どちらも問題の本質には関係のない瑣末な話だと思うのですが。
6.今月1日に地裁決定が出て、2日に園側が抗告し、30日には高裁決定が出る予定でした。つまり、抗告から高裁決定に至る期間はたった一ヶ月です。それも残りたったの二週間。行政代執行を16日に行なう必要性は無かったと思いますが、批判者達は二週間の猶予も与えない代執行を手放しで肯定しています。これは三審制や三権分立を事実上否定しているようなものですが、その一方で府知事側は、別件の地裁判決に特に不服がないにもかかわらず「三審制」だからという理由で控訴しており、そうした二重基準についても誰も言及していません。同じ控訴でも、園長の控訴は汚い控訴で、府知事の控訴は綺麗な控訴なのでしょうか?
(※1)たとえ、消去が過失によるものであったとしても、自分達が書いたものに文責を負うのであれば、書くにあたって費やした労力や工夫が無に帰したことについて、少なからず虚脱感を覚えるものだと思うのですが、そうしたことを感じないのは、普段から自分達の書いているものに対して、文責を意識していないからなのかもしれません。
(※2)結局、そういう手法にしか反応できない人達が、その社会の多数を占めているのであれば、マスメディアはより高い視聴率を獲得するために、そうした使い古された手法を今後も利用するだろうと思います。煽情的報道を批判するのであれば、そうした報道のバイアスを排除して、各々が考える「問題の本質」に踏み込んで言及する必要があると思います。
問題の本質に言及せずに「問題の本質を摩り替えるような」と何故言えるのだろう?
ある種の人達は「園児の涙」報道によって問題の本質が摩り替えられたと感じているようですが、そう思うのであれば、ある像が何者かの印象操作によって、そのあるがままの姿を映し出していないことを説明するためには、次の2点を摘示しなければならないでしょう。
(1)本来の像はどのような姿をしているのか、
(2)誰がどのようにして歪めてしまったのか。
(2)については、「園児の涙」報道への批判や「九条の会」批判という形で示している人もいますが、その人達が(1)についても指摘している例は殆ど見ません。
しかし、本来の像、すなわち誰かに摩り替えられたと各々が考える問題の本質に言及することなく、どうして「問題の本質を摩り替えるような」と認識できるのでしょうか。本来の像がどのような姿をしているのかを知っているからこそ、「園児の涙」報道によって印象操作が行われたと指摘できる訳で、それを示さずにメディアを批判しても、あまり説得力を感じません。
>敢えて言えば、ああいう指摘は人の家ではなく、自分の家があるのだからそちらでやるべきだとは思った。
言及ありがとうございます。そうですね。今後はそうします。
ブログで書くことを躊躇ってしまうのは、書いても反応があるのはリベラルな人達、せいぜい保守リベラルな人達までで、伝えるべき相手に伝わっている実感がまるでなく、その一方で『痛ニュ』などを介してデマや陰謀論は爆発的に広がっていることへの無力感です。ブクマに捕捉されずに、かつ、『痛ニュ』のリンク先さえも読まない人達に伝えるには、ああいう場の空気自体を変えることだろうかと考えてきましたが、もうそちらの方向は止めにします。
愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記:気楽に書けたらどんなにいいことかと無責任に思う
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070909/kiraku
<引用開始>
なんで気楽に書かなくなったかというと、多分ネットを「曖昧な情報(あるいはデマ)の拡大装置」に使っているように、ぼくには思えた人(あるいは場所)が、ぼくがこの日記のささやかな影響力を意識しはじめていた時点では目立っていたことがありました。「個人の日記」レベルで気楽に書いている人たちに対する違和感はあることはあっても、それにムカつくとか憤慨するという公憤はあまり出てこないんですが、ある程度アクセス数のあるところが、ていうかぼくより数十倍も影響力のあるところが、曖昧な情報をネタにすることには、はっきりぼくの「敵」とするところである、と明言したほうがいいのかも、と思いました。
具体的に言えば、それは今現在では「痛いニュース(ノ∀`)」です。
いやそれは具体的に言いすぎかな。もう少し広く言うと「曖昧な情報を「ネタ」として楽しんでいる(読者を楽しませている)、2ちゃんねる的掲示板を含むいろいろなサイト」でしょうか。
(中略)
考えてみたらぼくの「敵」は、「痛いニュース(ノ∀`)」(のようなところ)ではなく、「痛いニュース(ノ∀`)」(のようなところ)をソースにして何か言って(日記でもブクマコメントでも)「あとで訂正」しない個々の人たちだったり、そのようなネットの使いかたがされていながら、一部マスコミの無責任ぶりに対しては厳しい「ネットの雰囲気」だったり、なのかもしれません。
<引用終了>
>ああいう場の空気自体を変えること
これについても最近は考え込んでしまって、文章を書き込むことにためらいを感じてしまいます。現在進行中の記事についても、何故一方的な見方しかできないのかと考え込んでしまいました。(実際には異なった意見を書き込む方も居て、ひとつの見方だけに埋め尽くされる事は無い様ですけど)
私も感情にまかせて書き込み、スッキリすると言うような事は避けたいですね。
>何故一方的な見方しかできないのかと考え込んでしまいました。
起・承・転・反○○(反メディア、反日教組、反九条の会など)という発想は、フォーマットさえあればあれこれと考えることなく楽ですから、何も調べなくても仲間内では尤もらしく何事かを論じた気になれます。そうしたお手軽で馴れ合い重視の姿勢ゆえに、自律的にはダブスタやデマ、陰謀論を訂正することが出来ないのですが、かといって他人から指摘を受けることにもプライドが邪魔をして堪えられないので、訂正の機会は外部からも得られず、言論の劣化が加速していきます。
イエスマンに囲まれて、居心地の良い揺り籠から抜け出さないのだから、何度でも思考の失敗を繰り返しますし、何度でもメディアの向こうのよく知らない誰かを傷つけるでしょうし、傷つけたという自覚さえ持たずに次の話題に飛びつくのでしょう。
同じ意見にばかり接していることの弊害は、「自身はヘタレであるにもかかわらず他者には苛烈」という形でも表れます。その場にいる人達(実際に批判を伝えられる相手)に対しては馴れ合いといっても差し支え無いほどの優しさを示すけれど、その場にいない人達(反論可能性のない相手)に対しては峻烈な批判を向ける点です。ウェブ炎上を容認したり、荒らしを已む無しとする論調にも通じる性質です。
>実際には異なった意見を書き込む方も居て、ひとつの見方だけに埋め尽くされる事は無い様ですけど
さあ、どうでしょうね。今現在、あそこで孤軍奮闘しているのは、治部少輔氏一人ではないでしょうか?治部氏一人のやる気に懸かっていると言ってもいいでしょう。その治部氏についても、関心事が歴史と安全保障の分野に限定されており、その他の面では彼の活躍に期待するのは困難です。かつては、だっしーさんやコロンバスさんがそうした役割を果たしていましたが、彼らの姿ももう見かけません。ウェブ上では書かれていないものは存在しないようなものです。治部氏が書かない領域では、そこに書かれていることだけが、そこの全てです。
『痛ニュ』発、『痛ニュ』止まりの思考停止は、すぐ近くまで来ています。
しかし、そうした陰謀論者やならず者もまた彼を信用して、そこに集まっているのですから、彼らに対して優しさや思いやりがあるのであれば、そうした人達がデマや陰謀論に走ったり、法治国家の手続きを軽視したりした際には、彼自身が率先して指摘していれば、他の指摘者があれこれと苦慮することも、指摘される側が嫌な思いをすることも、話が拗れることも少なかったでしょう。その使い捨ての発想は、過去の行動からも分かります。
(1)懲戒請求煽動問題に際しては、自身の文責を認めながらも“橋下氏は懲戒請求という手法を教えただけで、実際に行動した人達の自己責任だ”という論調で橋下氏を擁護していました。請求に伴う調査義務やリスクを説明しなかった橋下氏の非を見過ごし、自身は文責のみを当該文章の削除というで形で果たしただけで、後は現に行動したであろう人達の自己責任として処理する。その思考の背景には、彼自身が懲戒請求をしていなかったという事情もあるのでしょう。彼(とその取り巻き)は、あの時、橋下氏を擁護するために、自分の文章を信じて実際に懲戒請求を行なったかもしれない読者を切り捨てました。
(2)今年7月、『たかじんのそこまで言って委員会』という番組での竹島問題関連の発言がきっかけで、山本太郎氏の公式サイト掲示板が荒らされ、一時閉鎖に追い込まれたことがありました。その際、N氏の掲示板や画像掲示板にも荒らしや炎上を肯定し、奨励するかのような意見が幾つか書き込まれました。スレの方向性がそうした方向一色に向かいつつあったことに憂慮して、かなり厳しいコメントを投稿した途端、それまでは曖昧な態度でのらりくらりとしていたN氏が、はっきりと炎上容認・奨励論を切り捨てました。しかし、私が書かなければ、彼は明確な態度を示すことは無かったでしょう。愚かな“祭り”に参入する前に制止していれば、傷つかなくて済んだ人もいたことでしょうし、私に指摘されることを好ましく思わない人達が、プライドを傷つけられたと感じることもなかったでしょう。
何かがあれば切り捨てるというやり方ではなく、最初から論理的にその言動に含まれる問題点を、人格とは切り離して摘示していれば、それで終いの話でしたが、彼自身はそうした努力を、中山元国交相辞任問題の際にも、北巣本保育園行政代執行問題の際にも、今回の田母神「論文」問題の際にも、一切行いませんでした。行わないという確固たる意思さえ感じる程でした。私が不快なのは、あの保身のための切り捨ての論理を、いつ切り捨てられてもおかしくない人達が、健気に擁護していることです。
ある掲示板にて前幕僚長のスレで投稿しているのですが、コメが余り載らないのです。全体の雰囲気が『ヒステリック』な右寄りになって、それに指摘を入れると必ず没ります。歴史認識を声高に叫ぶ割りには、都合の悪い部分に目を瞑る…。彼等が穴だらけの論理しか展開できないのを指摘すると、没…。直対もない。管理者が『行きすぎた中傷』の名のもとに、操作してる様な気がするのです。そんな事は在りうるのでしょうか?私の妄想であって欲しいのですが…。携帯からですができるだけ回答を見るようにします。
ちなみに2Chではないですが、比較的大きなニュースサイトと思われます。
田母神元幕僚長の「論文」問題に関して、貴方がどの点を問題と感じているのか、文民統制の観点なのか、内部規定違反の点なのか、基本的な事実認識の点なのか等が不明で、「都合の悪い部分」とは具体的に何を指すのかが分からないので、私としては何とも言えません。
「2ちゃんねる」ではない比較的大きなニュースサイトというのが、どこのことなのか分かりませんが、コメント欄の承認制を導入しているブログや掲示板に関しては、管理者の恣意は已むを得ないと思います。尤も、その恣意の報いは、巡り巡って、同調者に囲まれて自滅するという結果として表れるでしょう。
『行きすぎた中傷』を根拠にされるのであれば、対応としては、丁寧な文章を心がけ、付け入られる隙を作らないことでしょう。「言い方が気に入らない」「上から目線が気に入らない」等も含めて、予め想定可能な反論(揚げ足取り)に抵触しない文章を書いていれば、「隙が無いからキツイ」ぐらいのことしか言われないものです。
田母神「論文」の事実関係に関しては、下記ブログが参考になります。リンク先はリベラルブロガーさんによるものなので、抵抗を感じる方もいるかもしれませんが、内容自体は保守系歴史家(秦郁彦氏と保阪正康氏)による対談形式で「論文」の事実誤認が指摘されていて、右寄りの人にとっても読むに値する内容です(こういう内容を一ブロガーが全文引用するのではなく、朝日新聞がウェブ上にきっちり載せておけば方法論においてもベストだとは思うのですが…)。
(2008年11月12日)ホドロフスキの記録帳:検証 田母神前空幕長論文
http://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20081112#1226494138
その他、田母神「論文」問題については、左サイドバーの「お気に入りリンク」に登録している3ブロガー(時事系日記サイト)さんも批判されているので、そちらも参考になります。
お話の腰を折るようで申し訳ありませんが私にとって一番の問題は田母神さんの発表により、右翼連中がそれをダシにして国粋主義が頭をもたげる事なのです。
私の投稿するサイトでメディアをゴミといいながらやり方は同じ穴のムジナ…。その点の指摘や大政翼賛会の是非等に触れるスレはなかなか掲載されない。そしてやっと掲載されても、彼等は遁走の繰り返しです。そればかりか非常連者の勇気を持ったスレが国粋主義者の気に入らないと袋叩きにあっているのです。
やはり…というか恣意性が入るのですか?メディアリテラシーの難しさを改めて思いしりました。
サイトは実名を挙げるのは避けますが、サイバーエージェントが関連しているようであることだけ報告致します。
また、携帯からですのでせっかく御紹介頂いたリンクにも触れる機会はないと思います。また莫大な知識ではなく、如何にたいらかに考えるか…ということに重点を置きたいとも感じております。
駄文におつきあい下さり、また丁寧な御回答本当にありがとうございました。